見出し画像

祖父について語るとき僕が語ること(前編)

『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』の両作品には、太平洋戦争末期のソ連侵攻が歴史の縦軸の一場面として描かれている。

前者は1939(昭和14)年のノモンハン事件の印象が強いが、間宮中尉が片腕を失ったのは、1945(昭和20)年8月のソ連の満州侵攻においてであった。また、後者では満蒙開拓団にいた天吾の父がソ連侵攻の情報を入手し、いち早く日本へ逃げ帰ったという場面が描かれる。

私の祖父もまた、太平洋戦争の末期に応召し、中国大陸に渡っている。しかも、上述の1945年8月のソ連の満州侵攻において、祖父の属していた軍は満州東部の磨刀石(まとうせき)という地で南進するソ連の戦車隊を迎え撃ったのだという。そこで辛くも生き残った祖父は、間宮中尉と同様、いてつくシベリアの地に抑留される――。

その強烈な体験を直に聞いてみたかったのだが、祖父の生前にはかなわなかった。また『ねじまき鳥クロニクル』の刊行時(1994〜95年)は、祖父の体験と物語世界が大きく重なることに思い至らなかった。

きわめて残念ではあるが、幸運なことに祖父は生前、思うところがあったようで自伝をしたためており、その生涯をほぼたどることができる。それが今回取り上げる『ワープロで描いた自画像 一地方公務員の足跡』(1994)だ。

もちろん、血縁の不思議さを考えると、もし祖父が彼の地で亡くなっていたら、あるいは大陸から引き揚げることができなかったとしたら、と考えてしまう。

しかし自伝を通読して感じたのは、祖父もやはり間宮中尉や天吾の父や、動物園の獣医のような物語の登場人物のようだということだ。つまり、祖父の個人史と私自身の個人史とのつながりはもちろん否定できないものの、歴史(集合的な記憶)との接続性、あるいは村上作品や画家・香月泰男の<シベリア・シリーズ>といった文学、美術への接続性をより強く感じてしまう。
逆にいえば、それらの作品を読み解き、鑑賞するうえでの補助線の一本として、祖父の個人史が機能する側面もあるのではないだろうか。その可能性を探るのが、本稿の目的である。

祖父・阿部恭(あべ・きょう)は1918(大正7)年、第一次世界大戦終戦の年に生まれた。第二次大戦が1939年に勃発するので、いわゆる「戦間期」に青春時代を送ったわけだ(ちなみに『猫を棄てる』によると、村上の父は大正6年生まれなので、ほぼ同世代だ)。

私の生まれた岩手県稗貫(ひえぬき)郡大迫(おおはさま)町(引用者注:現花巻市)は、北上山系から発する岳川、中井川、稗貫川などの水系に沿ってできた山あいの町である。山系の主峰早池峰山(はやちねさん)は、古くからこの地域の人びとに《お山》と呼ばれて親しまれ、また尊敬されてきた。

(阿部恭『ワープロで描いた自画像』(私家版)p9)

どうしても旧町名の大迫という地名で呼んでしまうが、当地は県庁所在地の盛岡市から南へ車で1時間弱といったところだろうか。県内有数のぶどうの産地で、ワインが名産である。また、祖父が述べている清流は美しく、私も幼少のころに訪れた記憶がある。おそらく親戚が病気で訪れたのだろう、病室を見舞った思い出と、子どもたちで川遊びをしたことがセットとなって残っている。

さて、祖父の生家は米屋だったそうだ。長兄はすでに結婚して家を出ており、父母、次兄と四人で暮らしていた。ほかに姉が一人いたそうだが、祖父が二歳のときに15歳で亡くなったという。さらに長兄と次兄の間に三男があったようだが夭折している。
末っ子の祖父は「周りからは甘やかされて育ったもののよう」だったが、朝夕の掃除をきちっとするようしつけられ、米屋なのに家のご飯は「いつも麦の入った混ぜご飯」だったそうだ。むだなぜいたくを戒められていたのだろう。

余談だが、祖父の自伝は書名のとおりワープロ書きだが、肉筆は非常に達筆で、まじめな人格がにじみ出ていた(いささか厳格に過ぎるところもあったが)。幼少期のエピソードからは、そうした禁欲的で実直な人柄が陶冶されていく兆しが見られるように思う。

祖父が大迫尋常小学校の門を初めてくぐったのは、大正も終わりに近い1925(大正14)年のことだった。この大迫小学校、ダルトン・プラン(ドルトン・プラン)なる学習方式を採用した、なかなか先進的な学校だったらしい。

ダルトンプランというのは、自由、責任、協同を原理とする学習案で、大正年代の末ごろから昭和の初めにかけてアメリカから伝えられたものである。従来の画一的な教育法から、子供の能力、個性に応じた教育へと大転換を図るものだった

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p30)

祖父によると、大迫尋常小学校にプラン導入が実現したのは、熱意ある校長の存在と町民の信頼があったからだそうだ。この教育方針のことを、祖父は「教えない学校」と称している。「教えない、詰め込まない教育」で、「教師も親も子供も「偏差値」なるものに振り回され、進学競争に明け暮れる今の世相から見れば、一種の爽快感さえ覚えてくるように思えてならな」かったそうだ。

なかなかに進歩的であるが、そんな学校で祖父はどんな存在だったのだろう。
祖父自身はごく控えめに、自慢にならないように書いているが、6年生のとき担任から卒業生代表として答辞を述べるように言われたという。

曲がりなりにもまとめて本番を迎え、校長先生の前に立って口頭の答辞を申し上げた。恐らくはほっぺたは真っ赤に上気していたことと思う。あとで先生から、「父兄が感心していたよ」との一言があった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p34)

さらにこの年(1930(昭和5)年)、教育勅語下賜40周年の記念式典の日に教育委員会から成績優等につき表彰され、置き時計をいただいたことを「少し面映いが」と断りを入れながら書き記している。

さて、なかなか優秀な成績で高等小学校へ進んだ祖父であったが、中学校(旧制中学校。5年制。尋常小学校6年ののち進む)やその先の高等学校、大学に進学することはまったく頭になかった。家の経済状態をおもんぱかってのことだったが、あるとき次兄にその旨を伝えたところ「バカ言わないで進学しろ」と一蹴されてしまう。

その後、父親とも相談し、1933(昭和8)年2月、祖父は初めて県都盛岡に出て、岩手県師範学校を受験(そう、祖父はかつて先生であった)。同年4月、15年間住み慣れた早池峰の里を後にする。

師範学校に入学し、1938(昭和13)年に卒業するまでの5年間について、祖父は自伝のなかで「我が国の運命を決定づける重大な事柄が発生し」たとして、内外の情勢を詳述している。

1933(昭和8)年  日本、国際連盟脱退。ヒトラー内閣成立
1934(昭和9)年  東北地方大凶作
1935(昭和10)年 天皇機関説問題が浮上
1936(昭和11)年 二・二六事件
1937(昭和12)年   近衛文麿内閣(第1次)成立。盧溝橋事件。日独伊三国防共協定締結。南京占領

国際連盟を脱退して世界から孤立して次第しだいに枢軸国側に傾いていくし、中国戦線は泥沼化していく。こうした世界の大きなうねりの中にあっても、私たちは強い日本を信じて疑わず、結果として平穏な学校生活を送ってきたのである。

やがて、短期現役兵(短現)としての徴兵検査も終わり、昭和十三年三月十九日の卒業式を迎えた。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p53-54)

徴兵検査で甲種合格から第二乙種合格を得た上位合格者は、陸軍は弘前の歩兵連隊に、海軍は横須賀海兵団に入隊(団)。5か月の訓練を受けて下士官となったのち除隊し、第一国民兵役に編入される。
しかし祖父は「筋骨薄弱」(このあたりに血のつながりを感じる)につき丙種合格だったため、四月から教壇に立つことになったという。

新任校が決まり、1938(昭和13)年4月1日の入学式からさっそく赴任する。勤め先は稗貫郡新堀(にいぼり)尋常高等小学校である(新堀村は現在の花巻市石鳥谷町新堀・石鳥谷町戸塚)。ここで祖父はいきなり尋常科6年生の担任を任される。このころのことを祖父は師範学校50周年記念誌に寄稿し、自伝に再録している。一部引用する。

それにしても修身、国語(読方、書方、綴方)、算術、国史、地理、理科、図画、唱歌、体操と並ぶ全教科を、一週三十四時間の時間割に従って指導することは容易なことではない。(中略)不得意な理科はいわゆる《黒板実験》になったり、《国語的理科指導》になってしまう。技術的にも自信のない図画、唱歌となると、とても満足な授業が出来るはずがない。音程が狂ってはいたがピアノがあったので、バイエルからやり直そうと心掛けてみたがものにならず、師範時代にもっとやっておけばと悔やんでも後の祭り。事志と異なり空回りばかりしている始末だった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p 59-60)

わが祖父ながら、小学校の先生には本当に頭が下がる。

朝は早くから下宿を飛び出し、夜は暗くならなければ帰らず、日曜、祝日も、また夏冬の休みにも子供らを集めて何かをしていた。週休何日どころか、《月月火水木金金》という毎日である。だれに命令されたというのではなく、とにかく子供たちの顔を見なければつまらなくてしようがなかった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p60)

ここまでくるといささかワーカホリックではないだろうか。つきあわされる子供たちや親御さんの気持ちもちょっと気になる。

さて、この勢いのまま2年目の翌14年度も6年生を担当するが、その間、ノモンハン事件が勃発している。

日支事変が拡大するにつれ、出征兵士の見送りに石鳥谷駅へ子供らを引率して行く回数が多くなった。日の丸の小旗を振り軍歌を歌いながら、神州不滅を信じて疑わなかった。ただ、ノモンハン事件のニュースには一抹の不安を抱いたことも事実である。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p61)

『ねじまき鳥〜』の間宮中尉が血なまぐさい皮はぎと野井戸での強烈な体験をしたのが、ノモンハン事件の前年1938(昭和13)年であった。このとき祖父は、新社会人として、新米教師として、悪戦苦闘していたわけだ。

ノモンハン事件について、祖父は他のいくつかの事件と並べて所感を述べている。

十四年五月に始まったノモンハン事件は、八月にソ連機械化部隊の大反撃を受けた。限られた当時の報道からでも苦戦の模様がうすうす感じ取られ、どうしたことかと心配でならなかった。敵戦車に対して火炎瓶で立ち向かったことは後日になって聞いた話だが、このときの教訓が生かされて、軍の装備は強化されているだろうと信じていた。しかし、それはまったく希望的観測に過ぎなかった。六年後の昭和二十年八月、私自身が、相も変わらぬ「鉄に対して肉弾」の戦法で、ソ連軍と対戦させられる羽目に陥っている。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p 67)

終戦間際のソ連侵攻でノモンハンの「教訓が生かされ」なかったことについては、祖父の経験と間宮中尉の経験がぴたりと合う。

祖父の教師時代の話に戻ろう。2年間の現場を経て1940(昭和15)年3月、現任校を休職、師範学校専攻科に入学する。

師範専攻科入学は言わば予定の行動である。二年間の教育実践を踏まえ、もう一度教育の基本的な事柄を勉強してみようとしたわけである。しかもそのために要する学費、生活費は自分が働いて得た金を充てるというわけだから、心掛けは誠に殊勝である。

(阿部恭『ワープロで描いた自画像』(私家版)p69)

たしかになかなか殊勝ではある。しかし、専攻科へ入学する者の中には、専攻科を出たという「箔」をつけようという者、また現場が長くなったのでこのへんで一息入れようという「息抜き型」、勤務校に何らかの事情でいたくない、さりとてなかなか抜け出せないため非常手段として入学する「一時滞留型」もいた(いずれの時代も、働くのはたいへんだ)。祖父はというと、初めは志高く「竜頭」だったが、終わりは「蛇尾」でどっちつかずに終わってしまったという。

師範学校専攻科で祖父は選考科目として、心理学、哲学を専攻する「心・論」と「地理」を選ぶ。「心・論」では、当時時流に乗っていたハイデガーの実存哲学や和辻哲郎なんかをかじった。心理学は担当教師が気に食わず、早々に返上したという(このあたりも血のつながりを感じなくはない)。

それにしても、翌十六年には大戦争が始まるという時勢のこのころに、自由な雰囲気の中で伸び伸びと暮らすことができたことは、短かかったけれども貴重な一時期だったと思う。(中略)形態心理学も地形学もどこかにいってしまったし、頭の中にも残っていない。一般教養の中では「古事記」の講義が面白かった。(中略)序文の「臣安萬侶言ス」から、一字一句いろんな学説を紹介して進むものだから、大半は序文に費やされた。本科のときに原典を読むことが大事だと教えられたものだが、そのことをなるほどと思うようになったのが収穫だったろう。遅ればせながら、『史記』、『源氏物語』などに手をかけるようになったのは、あのころのことが潜在意識として残っていたからだろう。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p71)

たしかに晩年の祖父は、『史記』に傾倒していた。お年寄りとはそんなものだろうと思っていたけれど、こんな背景があったわけだ。真のインテリとは言えないまでも、在野の読書好き、歴史好きの原点がここにあった。

一年間はあっという間に過ぎた。
十五年三月に南京に汪政権が誕生
六月、フランスがドイツに降伏
八月、ドイツのイギリス本土爆撃本格化
九月、日独伊三国同盟が締結
このころまでは、ドイツの勢いがものすごいものに感じられた。(中略)昭和十六年三月、新しい国民学校制度が発足することを目の前にして、師範学校専攻科の課程を無事修了した。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p74)

昭和16(1941)年3月末、新制度の国民学校への切り替えを伴う新勤務校への異動を新聞記事で確認し、4月初め、祖父は宮古港から出る定期船「羅賀丸」に乗り込む。
新任校は下閉伊(しもへい)郡鳥越(とりごえ)尋常高等小学校(新年度より国民学校)という「聞いたこともない学校」だった。当時、岩手県は「北方挺身隊」と称して県北の後発地域に若い独身男性教師を送り込んでいた。時局柄、有無を言わせない強い姿勢を感じ、祖父は正直不愉快であったというが、いたしかたない(祖父の同級生は招集されたり、軍需工場に徴用されていて、わがままを言える空気ではなかったらしい)。

さて、当地までの船旅はひどい船酔いに悩まされ、吐くものは胃液ばかりというさんざんなものだったという。
浜からほど近くに学校があり、小高い丘の斜面を切り崩して造成した、まさに猫の額という形容がぴったりの校庭に、これまた小さく、分教場(分校)かと思えるような粗末な校舎が立っていた。これが祖父の新任校・鳥越国民学校であった。

祖父の下宿は学校を見下ろす高台にあって、通勤時間は1、2分。高等科1、2年生(現在の中学校1年生、2年生に相当。この時から義務制になる)を担当することになったが、どうにも身が入らない。さらに新卒の同僚の先生が体調不良で休みがちなのに加え、校長先生は学校より家庭を優先するタイプで、放課後の職員室に祖父だけが一人ぼっちで取り残されることが多かった。
「さびしい……」
このとき、祖父23歳。いまだ独身である。

やや不本意な気持ちで赴任してきたのも確かで、正直、やりきれない気持ちもあったろう。しかし、ここで腐らないのがわが祖父ながらりっぱだ。「下手くそな習字」(おそらく謙遜)の通信教育を受け、日本史の勉強を独自に開始した。

私自身教壇に立って国史を教えながら、「神代」の取り扱いにふっ切れないものを感じていて、自分の属する大事な国「日本」を正しく理解し、自信をもって子供らに教えていかなければならないと思っていたからである。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p80)

そうこうしているうちに、病弱な新卒の先生は肺結核で休職になる。補充もないから、初等科(尋常科より名称変更)1〜4年生までを校長が、5年生から高等科2年生までを祖父が担任することになった。

四つの学年に向き合って、なにをどう指導したのかさっぱり覚えはない。おおかたは出たとこ勝負の授業の連続だったろう。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p83)

てんやわんやのなか、国際情勢に目を移せば事態は緊迫していく。

十六年四月十三日に日ソ中立条約が調印された。
これはいいぞと思っているうちに、
ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵入した(六月二十二日)。
全くわけがわからない。
(中略)
アメリカが日本の資産を凍結する。
いわゆるABCD包囲網(引用者注:米英中蘭による対日経済封鎖。軍部は国民の敵がい心をあおり、日米開戦へと導かれていった)がじわじわと締め付けてくる。
七月十八日、第三次近衛内閣成立。
二十八日、南部仏印進駐。
十月十七日、東条内閣が成立
というように刻々情勢が動く。
ラジオのニュースを聞き、遅れてくる新聞を食い入るようにして見ながら、容易ならざる緊迫した空気をひしひしと感じていた。

第二国民兵役(二国)の者も召集されるという報道があった。師範卒後の短期現役に行かないで、第二国民兵役に編入されていた私にも、いつ赤紙がくるかもしれない。まず体の鍛錬が大事とばかり、冷水摩擦を始めた。太平洋から昇る太陽を正面にして、屋外のポンプの井戸水で上半身をゴシゴシやるのは気持ちがよかった。

(『ワープロで描いた自画像』(私家版)p84-85)

祖父の予感は的中する。昭和16(1941)年12月8日朝、真珠湾攻撃。日米開戦ののろしが上がった。

→ 中編へ続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?