AIと将棋:"AI"の本質について
藤井聡太竜王、六冠獲得おめでとうございます。
本日は電王戦について感想を記すとともに、AIについてわたしの考えを記したいと思います。
藤井竜王以前のスター
将棋界は藤井六冠とゆうスターにより大盛り上がりです。
将棋の試合内容については難しいところもありますが、わたしは試合の解説・切り取り場面や、指し手順などをエンタメとして楽しんでいます。
(とゆうよりも、「藤井竜王」を視にゆくとゆうのが正解かもしれません)
(解説者が「おお!」と感嘆をあげるところも、どこが「おお!」なのだ、と思うこともあります)
わたしは、そこでふと、藤井六冠が現れる直前の将棋界の新進気鋭のスターは誰なのかと考えるのです。
幾人かの棋士のお名前が挙がりましょうが、その中の一人にAIがあるのではと考えたりします。
電王戦は今や過去の話ですが、昨今、AIが話題の中心にあるので取り上げる次第です。
"AI"の本質について
「AI」の本来の定義については、わたしは本当のところはよくわからないのですが、ただ、今般世間で話題にされるところの"AI"について、わたしは次のように考えます。
AIの構成要素はデータベースと検索機能の2つがあると思います。
つまり、世間で話題にされるところの"AI"の本質は要するに「辞書」です。
辞書もいわば一冊のデータベースであり、わたしたちは「辞書をひく」=検索することによりこれを使用します。
辞書は人類が最初に発明した"AI"とゆうのが、わたしの持論です。
AIと将棋
AIには他に「学習」(フィードバック)とゆう要素を要するといわれるかもしれません。
しかし、AIにとっての「学習」とはデータベースの作成過程に過ぎないように思います。
辞書も、"AI"も、要は出力する際に「字引き」と同じ工程となることです。
将棋は決められたマス目において決められた法則により手駒を交互に一手ずつ指し進めます。
そして将棋の最終的な目標は「勝つ」ことであり最適解が導く方向性が実に明快です。
したがって将棋の重要な特性は本来かなり数理的なものと思うのです。
なので、将棋とAIはそもそも相性が良いのでしょう。
将棋AIにおける「字引き」的な作用とは、膨大な数量の「指し手」のデータから最適解を検索することです。
(ただ、本当の意味での「新手の創造」はできないのかもしれません)
AIは勝利する
ここで、AIにとって「将棋が強く」なる事とは、一つは「データベース(棋譜や戦法)の拡充(=学習)」と「検索機能の強化」です。
データベースの蓄積と検索機能の速さの如何は電磁気的な機械的機能によるものです。
よって人の記憶力や思い出す能力よりも、物理的に勝ります。
世界的なランナーが普通の人が運転する自動車に勝てないように、いつしか将棋AIが棋士に勝ってしまうことは、ありうることなのだろうと思うのです。
AIは引退する
しかし、将棋界が盛り上がる今、AIによる将棋の試合はほとんど見られません。
電王戦が視聴されていたのは、ヨチヨチ歩きのAIが人の棋士に「勝てるか勝てないか」の瀬戸際にあったからこそ、価値があったのだと思います。
また、別の見方をするならば、電王戦とは「棋士とAI開発者」として、やはり「人間同士の戦い」が観戦されていたのかもしれません。
それが機械同士(AIソフト同士)の対決であるとしたら、その勝敗の決定は単なる機械的な性能の差異に過ぎないからです。
あるいは能力が拮抗したとしても、その勝敗は単なる1/2の確率の問題に落ちてゆき、つまりそれは、コイントスによる勝敗を視ているのと変わらないからです。
電王戦はAIが人たる棋士に追いつき、そして追い越す間際の瞬間だけ存在するものだったのです。
今やだれも「将棋指しとしてのAI」に興味がないことについては、しごく当然なことかもしれません。
また、人にできてAIにできないことの一つが、そこにあるような気がします。
ただ、電王戦を思い出すに、棋士の佇まいの美しさと、未来的なロボットアームの組み合わせの画面は、SF映画を思わせる魅力があったような気がします。