(9)『フラクタル』【おすすめアニメ感想】
本年もよろしくお願いいたします。
今回はアニメ作品『フラクタル』についての感想を記したいと思います。
フラクタル
(2011) 原作:マンデルブロ・エンジン※1、監督:山本寛、ストーリー原案:東浩紀、キャラクターデザイン:田代雅子、アニメーション制作:A-1 Pictures、(声)クレイン:小林ゆう、フリュネ:津田美波、ネッサ:花澤香菜、エンリ:井口裕香、ズンダ:浅沼晋太郎、バロー:宮本充、モーラン:島本須美
※1.監督:山本寛の原作者としてのペンネームとのこと
フラクタル - FRACTALE - 公式サイト
https://fractale-anime.com/
プレビュー
究極まで高度に発達したネットワークシステム『フラクタル』により、人類は労働や病気から解放され平穏な世界で自由気ままに生きている。しかし、『フラクタル』は数百年の時間を経て既に劣化し始めていた。支配層の『僧院』は『フラクタル』再生(再起動)の鍵を探し求めていたがついにそれを発見する。
それが、フリュネ(少女)とネッサ(コンピュータープログラム)であった。
一方、へき地のような場所に一人住む少年クレインも『フラクタル』の恩恵を受けながら、古い機器類(アンティーク)を趣味として気ままに生きていた。
そんなある日、武装する航空機に追われる少女フリュネがクレインの目前に現れる。少女を思わず救い出すクレインは、世界を支配する『僧院』と反体制組織「ロストミレニアム」との争いに巻き込まれてゆく。
本作の概要
本作はインターネット社会が究極まで発達した未来を描いたSFファンタジーのオリジナル作品です。どこか忘れがたい作品でした。
わたしが本作全体に感じるイメージは、広がる青い空、気持ちのいい風になびく草地の画面です。牧歌的で平穏な画面でありながら、作品全体にはどこかさみしさを感じさせる部分があり、そこが魅力的に思いました。
それは、ed(番組エンディングBGM)にも同様に受け取れる印象があります(是非、聞いていただきたい!)。
なお、「フラクタル」の従来の言葉の意味はBenoît B. Mandelbrot(B. B. マンデルブロ:フランスの数学者)により提唱された「自己相似性」に関する幾何学的概念だそうです。
もう一つの重要な要素
本作の重要なもう一つの要素に性的虐待があり、この点では視聴者によっては好悪の分かれる部分かもしれません。※直接的にその場面があるわけではありません。
わたしは当初何故そんな設定を盛り込んだのか解らなかったのですが、フリュネが僧院(実際は担当者のバロー)に対して嫌悪をいだく理由を創るためではないかなと思いました。
何故なら、僧院は人類に貢献しており、世界を支える「フラクタル」を維持することを目的としているため、本当は忌み嫌うべき理由がないからだと思うからです。
フリュネが僧院を忌避させる行動の理由がバローの性的虐待であったと考えます。
演出と演技について
わたしは本作の演出はかなりすばらしいなと思いました。
特にクレインの演出が生き生きとしてよかったのですが、声優の演技力の高さも寄与しているように思えました。
本作「フラクタル」では、それぞれのキャラクターが『キャラクター自身の心』で語り、行動しているように見えるからです。
つまり、「この場面はこうするべき」、「このシーンではこうするのが定番」とゆう制作者の頭で考えたような演出ではないからです。
世界をどう見るか:ユートピアと反ユートピア
面白いのは、本作の世界観では人々が特に抑圧されているわけではなく、平和で平穏であり、楽園と呼べるような理想的な世界が基礎設定になっている点です。
よくある設定では、政府や支配者が抑圧的であったり、殺戮を繰り返していたりするので、それに反抗する反政府勢力が主人公側となって戦う図式になることが多いです。
本作ではむしろフラクタル(僧院側)によって人類は安寧を得られており、逆に反体制側(ロストミレニアム側)の方が殺伐とした行動にも見えます。
たとえば、フラクタルに依存する人々は無料で高度な医療や健康が保証されることに対し、反体制側では病気によって医療がひっ迫し、困窮している様が描かれています。
そこで、わたしはどこに乗っているかとゆうと、僧院でもロストミレニアムでもなく、作中のモブである一般の人になります。そして、クレインの考えに近いかもしれません。
インターネット社会に対する不安
一方でフラクタルに依存する人々は、そのフラクタルの稼働が消失したとたんに生活の基盤を全面的に失うさまも描かれます。
また、一見華やかで高度な生活水準であるフラクタル内の仮想世界は、そのホログラフ(幻影)が消えるとまるで廃墟にすぎないことが明らかになる面も描かれます。
仮想世界(インターネット)により構築された楽園は立て板一枚超えると空しい廃墟であることが示されます。
主人公クレインについて
クレインに対する批評の中には、キャラクターとして何を考えているか分からないとゆう意見もみられます。
しかし、わたしは、クレインの心情は比較的明確であり、すばらしいキャラクター(主人公)だなと考えています。
わたしが、クレインに感情移入できるのは、体制側でも反体制側でもなく、イデオロギーに染まることもなく、それでいて現状をよく認識したうえで「人が最も重要なもの」と考えている点でした。
ある意味、世界や人の肯定感にあるように思います。
そして「フラクタル」が人類に必要なものであると理解しながらも、それに反するズンダたちに対しても歩み寄るし、仲間だと断言しています。
一方、それでいてクレインは僧院とロスト・ミレニアム(以下、LM)の両者のいずれにも賛同しない一方で、両者の考えにそれなりに理解を示しています。
そこが、クレインの迷いとして描かれています。そこが、一見するとクレインが優柔不断にみえる部分かもしれません。
たとえば、「迷わないキャラクター」として体制側のモーランや反体制側の強硬派であるディアス(アラバスタ)があります。
「迷わないこと」はキャラクターとしての輪郭は明瞭であり、乗りやすいものかもしれません。
しかし、迷わないとゆうことは、一方で「考えない」ことであり、時には偏執的で高圧的なものとなる危険性があるように思います。
特にそれが指導者である場合はいっそう危険なものであると思うからです。
クレインが「迷う」のは、「考える」からであり、その思慮の裏にはフリュネやズンダたち、あるいは一般の者たちに対する思いやりや優しさがあるからだと思うためです。
フリュネの行動について
フリュネも、クレインに負けないほどの魅力がありました。
ただ最終話では、フリュネはバローが原因で壊れかけている姿は見ていてつらいものがあります。
彼女は最初、僧院を忌避して逃げ出すのですが、心の底では人々を救いたいと思っていることがいくつかの行動に示されているように思いました。
当初はただ逃げ回ることを主にしていたフリュネは、クレインの影響を受けて自分自身を犠牲にしても世界を平和な方へ導くことを考えます。その方向性が示される部分が9話のフリュネの出立の場面だと思います。
フリュネもクレインと同様に迷いを抱えていたのですが、最後に世界の救済を決意しての「鍵」となることを選んだのだと思います。その起因はやはりクレインとネッサに対する思いやりが下地にあるのだと思います。
神様になった少女:ラストのシーンについて
最終話では、天空の部屋(宇宙)において、クレインとフリュネとネッサの3名は「神様」、つまり「フラクタル制御のための鍵のオリジナル」を知ることになる。
わたしは、その姿をみて愕然となってしまうのです。驚愕のラストです。
その少女は、楽し気に話す口調はネッサそのものですが、それは明らかに異様にみえます。
バローの話やオリジナルの少女の姿から、明らかに性的虐待による心的外傷(幼児退行かまたは2重人格)の姿のようにみえます。
ここで、性的虐待を受けた16歳の肉体と病的な精神がフラクタルの生体認証(鍵)であり、その再現がフリュネとネッサであることが明らかになるシーンでした。
ネッサは10歳の子供ではなく、病んだ16歳の心であったという事実です。
わたしは、ここで、物語のなかにその要素の必要性が今一つ思いつかず、また、ストーリー原案に何故この要素を入れ込んだのかは解りませんでした。
単にフラクタルの開発者が好まざる人物であったとゆうことに過ぎないとする設定であったかもしれません。
ただ、この他にいくつか思いつくこともあります。
いかに高水準の科学技術であったとしても、それを取り扱う人物の個々の倫理観や価値観とはリンクしないのだとゆうことなのかもしれません。
結末についての感想
わたしは本作の結末は良かったのではないかと思います。
最後にクレインは、ズンダに行動の決定を促されたとき、「好きだとゆうことを伝える」ことを口にし、フリュネとネッサを連れて帰るのだと告げますが、すべて有言実行します。
それゆえ、クレインは他の作品では見られないほど、すばらしいキャラクターであったと思うのです。
また、最後のフリュネの目覚めのシーンにおいて、初めはネッサが目覚め、そして次にフリュネが「わたしも好きよ」とクレインに返答して現れる演出は(クレインはそこではっとする)秀逸であったと思いました。
本作は素晴らしい作品であったと考えます。
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