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自分の「無力さ」に出会う

19歳~20歳の時、学校のプログラムを利用してとある外国でホテルで働き、こずかい程度の給与をもらいながら1年間暮らすという、インターンシップに参加していました。

同学校から数人で同じ地域に行っていたので全く1人と言うわけではなかったのですが、とにかくあの時の経験は人生の中でも際立つ1年でした。

若い時に海外に行くことをお勧めする理由。
それは…、「自分の無力さを感じられるから」です。

スマホがあれば何でもできる時代。だからなんだか勘違いしてしまう。暇をつぶせて、動画を見れば「あれはどう」「これはどう」と批評家になって「見ている側」という無意識に上から視線で物事をみてしまったりする。

社会人になる前に、自分の無力さを目の当たりにして「自分で解決するしかない」という窮地に立たされることがいい経験だった。その後も何か問題に直面したときに「自力で解決するしかない」という方向に脳みそが働くようになる。「何かのせいにする」ことの無意味さを思い知るからだ。

もちろん、誰かに助けを求めることは大切で、人を巻き込むことも大切。でも「人のせいにしない」を心においておけば、仕事にしても、長時間労働が嫌なら「自分で会社の仕組みを変えるしかない」、会社に出勤するのが嫌なら「出勤しないでもできる仕事に就けるよう方向性を変えていくしかない」とか。

職場の人を怒らせたという些細なことだけど

外国に行って始めの3カ月?(1カ月だったかな?)は語学を学校でまなんだのだけど入ってこなかった。今思うと座学がやっぱり自分には合わなかったのだと思う。体験は強い。

「無力さ」について、受験に失敗しても自分が無力だとは思わなかった。(本気で勉強してなかったからで、いろいろと無駄にしたなという後悔)

でも海外での仕事中、職場の人を怒らせてしまったことがあって、あの時のことは一生忘れない。

当時、同じ部署に日本人がおらず、分からないことを聞こうとしたのか?内容は忘れたのだが、「伝えたいこと」がまったく伝わらず、怒らせたのだ。その時は何も出来ずただただその場を耐えるしかできなかった。「言葉が通じない」のは自分の勉強不足。相手に配慮してもらおうなんて忙しい職場では通用しなかった。

怒らせてしまった人は、もともと怒りっぽいおばちゃんだったのだけれど、忙しくないときは優しかった。怒らせてしまったのは入りたての頃。彼女はわたしが英語を喋れないから怒ったのではなく、私が伝えようとしていなかったし、おそらく伝える気持ちが弱かったからだ。向こうからしたら「何を伝えたいのか分からない!忙しいときに何⁉」という感じだったと思う。私は「分かってほしい」と思っていたのだ。その時にコミュニケーションの本質も知りました。「伝える」という強い気持ち。

以後、私がつたない英語を用いつつコミュニケーションをとると、英語を話せるようになったわけでもないのに、数日後にはそのおばちゃんも打ち解けていろいろと教えてくれるようになった。私がうまく話せなくても「伝えようとする」コミュニケーションに変わったからだろう。

今はスマホがあれば、道が分からずともどこにでも行けるし、リサーチも簡単。翻訳機能もついてるし、写真だって「いい感じ」の人の写真をまねて撮影してインスタグラムにアップされれば、友人からの「イイね!」が集まり、「私っていい感じ♪」という魔法にかかる。

昔の人や自然の中で生きる人たちは、「自分の無力さ」を知っているじゃないかと思う。だから傲慢にもならないし、「足る」を知っている。

日本は山が多く、自然と共に暮らしてきた国。もちろん自然災害も多い。それは他国との違いでもあり、それが献身的でまじめで、突き詰めたりすることが得意国民性の背景だとも感じる。

私が働いていたホテルには、アジア人も欧米人も小さな島で暮らす人もいろんな人がいた。だからいろんな人がいることに抵抗感がないし、それが当たり前だとも思う。日本が島国であることをものすごい特異な特徴だとも思っているし、日本人である!という意識も若い頃からある。そして日本が好きだし、日本で暮らし、死にたいと思う。

ここまでグローバルな時代になれば、日本人だから…なんてくくるのもナンセンス。何にどう影響されるかは人それぞれだから。でも、外にでないと日本人アイデンティティを意識することはあまりないと思う。比較が体感として無いから。

ぜひ若い時に「無力な自分に気づく」体験ができたら、すごくラッキーだと思うので、もし未だそんな体験ないなーっていう人は、自分がマジで無力に感じるだろうなというようなスゴイ場所に行ってみることをお勧めします!




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