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Netflix「阿修羅のごとく」で是枝監督は何がしたかったのか? ~漂白された向田邦子~

今日の記事は長い(8765文字)。
書いてて自分でも長すぎると思ったけど、そのままアップしようと思う。

前の記事に書いたように、僕とパートナーのトナさんは、向田邦子作品が大好きで、異常に詳しかったりする。
なので、ネトフリ版「阿修羅のごとく」も二人で一気見。
大満足だったけど、僕は、時間が経ったらなんだかモヤモヤしてきた。

「阿修羅のごとく」ネトフリ版は、8割以上オリジナル脚本通りに作られていたと思う。
実家の場所が国立から池上に変わっていたりとか、同じセリフでもシーンが微妙に違うことはあったけれど、ほぼほぼ、シナリオの内容は同じ。
オリジナルと全く同じ全7話で、長さもほぼ同じだった。

NHK版は、1979年時点のブラウン管スタンダードサイズのテレビ画面を前提として作られてるので登場人物のアップが多い演出だった。
とにかく、セリフを喋っている人をアップで分かりやすく見せる昭和の演出。

一方、ネトフリ版は極めて映画的で、引きの絵が多かった。
引きの映像はとても美しく、独特のリアリティが感じられる反面「今のセリフ、誰が発してるの?」と、一瞬戸惑うことも…。

我が家のテレビはかろうじて状況が理解できる解像度と大きさがあるので良かったけど、スマホやタブレットで見てる人は大丈夫だろうか、と少し心配になった。

八木康夫プロデューサーのインタビューを読んだら、なんと、カメラ1台で、フィルムで撮影したとのこと。

特に映像芸術(ていうか芸術全般)に造詣が深いわけではない無教養な僕には、そういった監督のこだわりは良くわからない。
ただ単に「ちょっと見づらい」としか思えなかった。

なんていうか…。

庶民に人気の町中華を、有名一流シェフの手で再プロデュースされたみたいな居心地の悪さ…。

僕、そんなに舌が上等じゃないんで…ごめんなさい…て感じ?

でも、向田邦子によるシナリオの「セリフのやり取りの殆ど」がそのままだったので、大満足だった。
ウチのテレビが4K100インチの高級品だったら、もっと見やすくて満足できたのかもしれない。

というわけで、総合的には大満足で、見て良かったと思うのだが…。

ここから先はドラマの内容に触れるので、ネトフリ版「阿修羅のごとく」を最後まで見た方、1979年のNHKのオリジナル版を見てる人以外にはチンプンカンプンかもしれないし、ネタバレ注意です。
「阿修羅のごとく」は2003年に映画化もされているけれど、あくまで「全7話」のドラマシナリオに則った向田邦子作品の考察なので、映画には触れません(ていうか実は映画版は見ていない…)。

今回のネトフリ版は、向田邦子のオリジナル脚本を「原作」に、是枝監督が「脚色」した作品なので、きっと新しい解釈があるのだろうなぁと思っていたら、ちょっとびっくりするぐらい、作品のテーマを根本的にひっくり返すような部分があったのに驚いた。

それは、父親、竹沢恒太郎の描き方だ。

ネトフリ版の出演者が公表され、父親役が國村隼だと知ったとき、真っ先に浮かんだのが、ドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」だった。

自由奔放な父親に振り回されるジェーン・スーのエッセイを元にした作品。
僕とトナさんはジェーン・スーと堀井美香のポッドキャスト「OVER THE SUN(オーバーザサン)」の大ファンなので、このドラマは結構見ていた。

このドラマにおける國村隼は、とにかく「憎めない」感じのヘラヘラしたおじいさん、という印象だった。

オリジナル「阿修羅のごとく」の父親は、無口で厳格で何を考えてるのかわからない昭和オヤジ、という設定なので、今回はどんな演技をするのだろう、と思ったら…。

ジェーン・スーの父親役と、ほぼ同じキャラだった。

つまり、憎めない、のである。

物語の中心となっている「父親の浮気」について。
父親は70歳で、不倫相手は小学生の男の子がいる40歳女性。
男の子との血縁関係はない。

主人公4人姉妹の父親は、「男の子を育てる」ことに関心があったのではないか、とも取れる設定だ。

浮気が家族にバレたあと、再婚を理由に愛人にフラれ、さらに妻にも先立たれた後、父親は完全に孤独になる。

しかし、愛人の男の子から「会いたい」と連絡がきて、喜び勇んで喫茶店に行き、男の子にケーキを奢る父親…。

1979年版の第3話では、妻の墓参りのシーンに、父が「縁側で突っ伏して一人で慟哭する」シーンが短くカットインする演出があった。
妻を長年裏切っていたことへの罪の意識と喪失感が、短いカットで表現されていた。

普段無口で何考えてるのかわからない昭和オヤジの、この、誰も見ていない場所でしか爆発できない感情表現は、かなりぐっとくるものがあった。

その後、形見分けでもらった母の着物を着る三女の滝子の姿に、死んだ妻を重ねてしんみりする父親のシーンも、オリジナル版にはあった。

でも、ネトフリ版には、縁側での慟哭のシーンも、滝子とのシーンも、全くなかった。

さらに、ネトフリ版では、最後の最後で、「実は愛人が再婚したというのは嘘だった」というオチが付け加えられていたのには心底ビックリした。

つまり、「奥様やご家族に遠慮して身を引いたけど、本当はまだあなたのことが…」と愛人女性に想われ続けていた、ともとれる展開に変えられていた。

まぁ、憎めないキャラだから…。

これはこれで後味が悪くないので、アリだとは思ったけど。

1979年版のオリジナルの描写は、もっと容赦なかった。
愛人は、本当に再婚していた。再婚相手も登場したと思う。
しかし、自分になついていた男の子が連絡してきたので、可愛くてついついケーキを奢ってあげたりしてしまう。
それに気づいた元愛人は「もう関わらないでください」的な強い視線で父を睨み、息子に対して「もう会っちゃダメよ」と言い放つ。

そして昭和オヤジは孤独に陥るのであった、みたいな…。

だからこそ、同居する三女滝子の着物姿に、死んだ妻を重ねるシーンはぐっとくるものがあるわけで…。
切なくて、良い。

向田邦子作品の多くは、昭和の頑固オヤジを描きながらも、決して「悪役」としては描かなかった。
「阿修羅のごとく」1979年版でも、娘たちは誰一人として父を恨んだり憎んだりしていないことが分かるセリフがたくさんあった。

あの時代特有の親子バランスが見事に表現されていた、と僕は思う。

まぁ、ネトフリ版は、これはこれで後味が悪くない終わり方だから嫌いではないんだけど、昭和オヤジを描かせたら天下一品である向田邦子のシナリオが漂白されちゃった感じがしないでもない。

まだ続きます。

浮気と言えば、次女、巻子の夫、鷹男である。
最初は、「うちの主人、浮気してるんじゃないかしら」と、巻子が一人で不安がっているだけだった。
しかし、第3話。
「大阪に出張に行く」と早めに家を出た鷹男は、公衆電話から「夕方の会議までに着けばいいからヒマなんだ。今からメシでも食おう」と愛人宅に電話した…つもりで、うっかり自宅にかけてしまう。

ダイヤル電話だった頃の、昭和あるある。

夏休みの後の教室で、つい先生を「おかあさん」と呼んでしまう脳のバグ的な…。

電話に出た妻の巻子は大ショック…。
夫の秘書の赤木啓子が相手なのではないかと勘繰り始める。

一方、赤木は、巻子の娘、洋子とも親しくなる。
「『セクレタリー』って言うと知的なのに、『秘書』って言うと、いやらしい意味に聞こえるよね」
「『トイレ』って言うと水洗に感じるけど『お便所』っていうと汲み取り式に感じるのと同じね」
という、二人の会話が面白い。
この場面は、オリジナル版にもネトフリ版にもあった。

全く異なるのは、この後の展開だ。

会計監査に備え、急遽、旅館に缶詰めになって書類を整理することになった鷹男。
「いつも麻雀で使ってる宿のどれかだよ」という適当な言い方に疑いを抱く巻子。

ネトフリ版では、「着替えを用意した」という口実で、巻子は旅館を訪ねる。
どうやってその旅館を特定できたのかは描かれていない。
最近の母の様子を心配した娘の洋子が後をつけ、旅館の前で「私が代わりにシャツを渡して偵察してきてあげる」と、なぜか協力。
いきなり洋子が来て驚いた赤木は「私、疑われてるみたいね…」と、鷹男にもらす。

1979年のオリジナル版では、疑心暗鬼にかられた巻子が会社に電話して、旅館の名前を聞き出してたどり着くまでが丁寧に描かれていた。
しかし、じっと旅館を睨みつけて佇んでいる様子を、娘の洋子に見られてしまう。
洋子は、赤木に渡す約束をしていたものがあり、会社に電話したらこの旅館にいると聞いてやってきたのだ。

「おかあさん、こんなところで何してるの?」
「あ、着替えのシャツを届けに来たのよ」
「もう渡して帰るところ?」

巻子は手に何も持っていない。
元々シャツなど渡す気はなくて、単なる偵察だったからだ。
慌てて誤魔化そうとする巻子。
洋子は何かを察して、ひきつった、乾いた声で笑う「あははははははは…」

この瞬間、巻子は、自分の母のことを思い出す。
寒い寒い冬の日。
母は、父の愛人のアパートの前に立って、長い間、部屋を睨んでいた。

巻子は母のその姿を目撃してしまった。
娘の巻子に見られていることに気付いた母は、激しく動揺して眩暈を起こし倒れる。
買い物かごから生卵が落ちて割れ、黄身が道路をドロドロ流れる…。
入院した母は意識不明のまま息を引き取ったのだ。

「私は、…あの時の母と…同じ」

愕然とする巻子。

これって、相当重要なシーンじゃないかと思うんだけど、わざわざ削ったのはなぜなんだろう?

そして一方、書類整理をしている旅館内では、秘書の赤木が上司の鷹男に意味深なセリフを放つ。

「わたし、なんだか奥様に疑われているような気がする。ねぇ、『かくれみの』って植物知ってます? 物のたとえの表現だと思ってたら、本当にそういう名前の植物があるんですって」

言われた鷹男は、ピクリとする…。

ここも、かなり重要なシーンなのに、ネトフリ版にはなかった。

鷹男は赤木と不倫していない、というのがハッキリするシーンだ。
脳のバグで電話してしまった愛人は、別にいるのだ。

この「かくれみの」場面があるからこそ、ラストで秘書の赤木の結婚式に仲人として出席した巻子が「わたし、信じてるわけじゃないのよ」というセリフが効くんじゃないかなぁ。

「かくれみの」のシーンがなければ、鷹男の浮気は巻子の単なる妄想だったかも、という余地が残ってしまう。

あるいは、赤木は本当に鷹男の愛人だったけど、結婚を機に手を切った(と思わせる)、みたいにも取れる。

ネトフリ版は、どっちかというと、後者の印象が強くなっている気がする。

これじゃ、父の愛人の、子持ちの女性と同じ描き方じゃないか。

「奥様のために身を引くけれど、他の男と結婚しても心は一生あなたの物よ」と、女性に思われ続けたいという男の願望男のロマン…。

想像したら、ちょっと吐いた。

さらに、巻子と娘の洋子の交流って、必要?

ネトフリ版では、なぜかこの二人は仲が良く、オリジナル版には存在しないセリフのやり取りも追加されている。
「お母さん、私に何でも話してよ」的な…。

女の性(さが)は繰り返す、みたいな考え方を払拭したかったのかな?

それはそれで悪くないとは思うけど、「阿修羅のごとく」のストーリー骨格を利用して、それをやるのには無理があると思う。
別のオリジナルの設定を考えてやって欲しいと思った。

ネトフリ版で不自然に思ったのは、ここまで母親に理解のある娘が、なんで万引きするんだ? という部分だ。
洋子の万引きは、オリジナルもそのままのエピソード。

娘、洋子の万引き事件は、以前、巻子が万引きで捕まった話を鷹男に告白する引き金になるから、必要な場面だと思う。

「私は、あなたの浮気のせいで、万引きしちゃうほど心が乱れてどうかしていた」と吐露する大切なシーンに続くからだ。

オリジナル版のように「あははははは…」と、ひきつった乾いた笑いを残すだけの洋子だったら、精神が不安定な母親に影響されて万引きしてしまうという展開が自然につながる。

でも、ネトフリ版では、あの聡明な娘が、なんで万引き?
という疑問が残る。
「新しい母娘関係」を描くのは良いけれど、だったらオリジナルにある洋子の万引きシーンは不要というか、不自然すぎるだろう。

他にも違和感を感じるシーンは沢山あった。
思い出せるものだけ書きだすと…。

三女の滝子と四女の咲子の確執が、ネトフリ版では少々ぬるい感じに演出されていた気がする。

最終話。
咲子の、ボクサーの旦那が意識不明になる。

それを知った滝子は、落ち込む。
普段から自分に対して生意気を言う咲子を嫌って、咲子なんか不幸になればいいと思っていたけれど、実際に妹が不幸になるのを見るのは思った以上に辛かった。
私ってバカだ。こんなに辛いなんて…、と自己嫌悪に陥る滝子。

介護疲れと姑の嫌味に弱り切った咲子は、見知らぬ男に身をゆだねた結果、脅される羽目になる。

ここまでは、オリジナル版もネトフリ版も殆ど一緒。

ただ、ネトフリ版に登場する、物凄くお金をかけて撮影されたと思われる大群衆のボクシングの試合のシーンは、オリジナルにはない。
意識不明で入院した、という連絡が来るだけだ。
試合のシーンは、作品のテーマ上、別に必要なかったんじゃないかなぁ、と僕は思う。
このシーンのために、他の大切なエピソードが結構削られていたように思うし。

そして、その後の展開は微妙に異なる。

ネトフリ版では、お見舞いに来た滝子に、咲子があっさり脅されていることを告白し、助けを求める。
「私が何とかするわ」と、滝子が大活躍して解決する。

これはさすがにシナリオ改悪だと思った。

だって、あの咲子が、直接、滝子に助けを求めるかなぁ…。

オリジナル版では、咲子は、次女の巻子に助けを求めるのだ。
咲子から電話が来た時、たまたま巻子の家で留守番をしていた滝子は、パンを咥えたままで電話に出る。
もごもごしているので、滝子だと分からない咲子は、巻子だとばかり思い、全てを打ち明けて助けを求める。

急いで咲子に会いに行く滝子。
咲子は「なんで滝ちゃんが?」と、意外そうな、困ったような、恥ずかしいようなリアクション。
滝子は「わたしじゃダメなの?」と怒鳴る。怖いけど優しさが溢れている、とても良いシーン。

その後、夫の病室に脅した男を呼びつけて、滝子が啖呵を切ってやっつけるシーンも、オリジナルとネトフリ版は微妙に違っていた。

ネトフリ版は、「脅すんなら、もっと幸せな人を脅しなさいよ!!」と正論を述べるセリフのみだったが、オリジナル版はもっと長かった。

オリジナル版では、滝子は、この場に夫の勝又を同席させていた。
上記の正論をかました後で、さらにセリフは続く。

「うちの主人は興信所に勤めてるのよ! あんたの職業とか、家族とか、何でも調べられんのよ! 人様の前で顔を上げて歩けなくなるようにすることだってできるんだから!」

これはキマッた!!
カコイイ!!
滝子、最高! と思った場面だ。

なのに、このセリフは、ネトフリ版では全カット…。なんで?

あんな正論だけで、あの男が引き下がるのは不自然だよなぁ、とネトフリ版を見て思った。

第1話で滝子が父の浮気調査を興信所の勝又に依頼したのがきっかけで、この二人は恋愛して結婚に至ったのだ。

興信所勤め、という勝又を、キチンとエピソードに取り込んでいるのは流石だ、と思ったんだけどなぁ…。

向田邦子の脚本には、一切無駄がないのだよ。

脚色した是枝監督が、「必要ない」と思ったのなら、それで構わないけれど、ただ単に削るんじゃなくて、それに代わる、是枝監督らしい、是枝監督じゃないと表現できない「何か」に置き換える必要があるんじゃないかと、僕は思う。
素人のくせに生意気ですが…。

いや、ちゃんと是枝監督らしい素敵なものに置き換わっていたのかもしれないけれど、僕には教養がないから理解できなかっただけなのかも(棒)。

ダラダラと長くなってしまったけど、もうちょっと続きます。

長女の綱子と次女の巻子が、週二日嘱託で働く父の会社を訪ね、意識不明で入院している咲子の旦那の見舞いに誘うシーンがある。

ここはシナリオ的にはNHK版と全く同じなのだけど、演出が全く違った。

出掛けようと立ち上がった父のデスクの椅子のクッションがボロボロなことに、綱子と巻子は気付く。
会社内における父の地位の低さをまざまざと感じさせられ、切なくなる、という大切な場面。

NHK版では、ボロボロの椅子がアップになり、綱子と巻子のリアクションもアップで分かりやすく演出されている。

しかし、ネトフリ版は、…なんとロングのワンカット。

父が立ち上がったとき、かすかに椅子は見えるけれど、真横からのロングショットなので、椅子のクッションがボロボロなのかどうかが全く見えない。
なのに、画面上では、巻子が椅子に目をやって、綱子に合図し、椅子を指さす動作をする。
椅子を見て、綱子も「ああ…」という表情をする、という細かい演技をしているのだ。

しかし、指さした先に何があるのかが、画面上では全く確認できない

椅子の方を指さしているけれど、椅子がどうかしたんだろうか? と、妙に引っかかるだけ。

これって、演出ミスなんじゃないだろうか?

映画のようにワンカメで撮るのは構わないけれど、必要な部分のクローズアップも取っておかないと、こんな風に意味不明な場面が出来てしまうんじゃないだろうか?
ネトフリ版「阿修羅のごとく」には、こういう意味不明なシーンが他にも数多くあった気がする。
ひとつひとつは思い出せないけど…。
とにかく「見づらい」わけ。
こんなことしたら、俳優の細かい演技が台無しなんじゃないかと思った。

綱子と巻子は、父を伴って咲子の旦那の見舞いに行く。

咲子は、ダンナの足の裏にマジックで「へのへのもへじ」を描いていた。

「これが笑ったら、意識が戻ったってわかるから」

切ないエピソード。

切ないけれど、「ホントに足が動いたら笑うように見えるのかしら」と気になった綱子は、不倫相手である料亭「枡川」の旦那と、お互いの足の裏に「へのへのもへじ」を書いて遊んだりするわけ。

これもまた、綱子らしいエピソード。

しかし、そのまま寝入ったら、たまたまガス管が外れていて、近所に「心中」として通報されて大騒ぎになる。

足の裏に「へのへのもへじ」を描いたまま帰宅した料亭の旦那は、女将に不倫がバレる。

というところは、ほぼオリジナル版もネトフリ版も同じだけれど、オリジナル版の方はもう少し細かい。

ガス事故の知らせを受けて、病院に駆け付けたのは綱子の不倫の事情を知っている巻子だけ。
綱子は、別室で寝ている不倫相手に「家に帰る前に足の裏の『へのへのもへじ』を消すように伝えて欲しい」と巻子に頼む。
巻子は、渋々不倫相手の病室に行くのだが…。

結局、巻子は伝えず、旦那は足の裏を女将に見られてしまう。

言おうと思った時、病室に医者が入ってきたので、「ま、いっか」という感じになってしまったのだ。

オリジナル版では、このエピソードの前に、巻子と料亭「枡川」の女将の会話シーンがある。
綱子の家から出てきた巻子に、待ち伏せしていた女将が「妹さんですか?」と、声をかけ、甘味処に誘ってきたのだ。

巻子としては、一応、姉の味方ではありたいけれど、夫の浮気に疑心暗鬼になる女将の姿に、夫、鷹男の浮気で悩む自分を重ねたりする。

そんなことがあったので、巻子は「へのへのもへじ」を消すよう言わなかったのかもしれないわけ。

こんな風に、1979年版のオリジナルでは、四姉妹全ての確執が丁寧に描かれていた。

一見いつも一緒で仲良しに見える長女と次女だが、恋愛観、というか、不倫に関しては価値観が全く違う。

三女と四女は、いつもいがみ合っているように見えて、実はお互いの一番の理解者同士だった。

向田邦子のシナリオには、それが全てエピソードとセリフで伝わるように書かれている。

簡単に削ったり変更したりしないで欲しいなぁ…。
いや、削ったり変更するなら、それより効果的なものに変えて欲しい。

繰り返しになるけれど…。

是枝監督には、きっと高尚な意図がおありになったのだと思います。
でも、僕には理解できなかっただけ(棒)。

トナさんと二人で、なんか、「ミステリと言う勿れ」を見た時と同じ感じがしたよね、て話になった。

他人のふんどしで…と言ったら言い過ぎだろうけれど…。

どアップの連続の昭和のドラマ演出は、確かに今見ると、ダサい。
でも、セリフのひとつひとつが、俳優の表情ひとつひとつが、非常にわかりやすく伝わると思う。

ダサいけど、「伝わる」のだ。

向田邦子のオリジナルシナリオは、当時のドラマ演出を考慮した上で書かれたものだと僕は思う。

だから、今回のネトフリの「映画的」で「洗練された」演出には、最初から最後まで違和感があったのかもしれない。

僕は田舎者なので、洗練とかよくわかんないので。
歳だし。

僕は、普段あんまり映画を見ないので、あんなに有名なのにもかかわらず是枝監督の作品を一本も見たことがない。

是枝監督が総合演出を手掛けた「舞子さんちのまかないさん」は見たことがあるけれど…。

このドラマは、とても楽しく面白く見れた。

けど、配信開始時に、ネット上では、元舞子さんだった人が、こんな告発をしていた。

告発の真偽はうやむやなまま。
嘘だったとしたら、なんでわざわざ危険を冒してまで、と思うし、この世界の隠ぺい体質とか、割とリアリティあると感じたし。
本当はどうなのかは、わからない。

是枝監督には全く責任はないけれど、その時僕が感じたのは、「この監督は、何もかも漂白して見せる人なんじゃないか」てこと。

向田邦子作品だけは、漂白しないでほしかった。

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