《繊月抄記》⑷
「角砂糖」
おはよう。少し遅れ気味の朝が涼しくて、俺に電子音みたいな音が複数不協和音を交えて聞こえてくる。機械装置のこの身から流れてくるのか、秋虫の呼び声なのか混線している。
こんな朝は偏頭痛が来る予兆なのだ。慎重に起き出して珈琲を淹れるのだ。まだ、「大丈夫だ、アイツはまだ来ない」そう思いながら薬箱からロキソニンを出す。直ぐに飲んで、ひとまず終了。鎮痛剤も色々と遍歴を繰り返して来たが、今はコイツが俺のベストアンサーなのだ。
こんな時の朝の珈琲はいつものブラックではない。角砂糖をふた粒入れるのさ。シュガーでなくて角砂糖でなくてはならない。それが俺の流儀なのだ。意味などない。ただ、角砂糖が溶けるのを感じたいのだ。それだけの理由で不足はないだろう。
そうして居ると、すっかりアイツが来る事を忘れられるのさ。たまには、そうして意味もなく過ごしながら不意の涙を流す朝もあるのさ。《繊月抄記》
「嘆いてみても」
ワタシのすべての迷走の始まりは、この和歌に出逢ってしまったことから始まりました。
「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」詠人不知
千年の前からこの星の夢とうつつの戦いは、いまもって尽きることがない。
今、つくづく思うに全てをフィクションで(嘘)文章を書くことができる作家さんているのだろうか?嘘と私が言ってるのは創作と言う意味なのですが?凡人の私には経験談と創作話しをアレンジした文章しか思いつかないのです。だが、しかし悪意の嘘はいただけない。
アホな馬鹿げた話しをして笑かそうとしている訳じゃないが、朝のひと時を和歌の一首でひとり迷走しているのです。今の世の中は、出鱈目ばかりの氾濫で人心を侮っているけど、市井の物書きが揶揄を込めての呟きも、戯言として見逃しているご時世は平穏と言えば平穏なのですが、危険との分水嶺だと思っている。
文字書きの嘘とうつつの嘘とは意味が違うから、早い話が物書きの嘘は、安らぎや希望、喜びなどなどエンタメの要素が殆どです。勿論、残念ながら例外はありますが、つまりは夢の産物ではないでしょうか。あまりにもうつつの嘘の氾濫は悪意に満ちた物ばかりです。言い出したらキリが無いくらいです。個人のレベルではどうにもならないほどの危険水域なのだが。
ここで言う嘘は、物書きの夢とうつつの嘘との戦いでは既になくなって居るのだと言う事なのだが。
平安時代のあの読み人知らずの和歌を詠んだ時代と現在の令和では何も違わないのではないのだろか、とさえ思へてしまう。それならばいっその事あの時代に戻れるものなら行っても良いかな、とさへ思ってしまうのです。《繊月抄記》
「秋の空」
秋の空が遠くに見える。あれほど近かった夏の空もいつの間にか暑さだけを置き土産にして帰って行った。さっきまで夏の空が近くでロックを流していたが、秋の訪れで空も雲も帰り支度して遠ざかる
のですね。それが何となくワタシを過去へと振り向かせてくれる。秋の空はやっぱり別れのブルースが似合うようです。センチメンタルですよ。《繊月抄記》
「目を閉じれば」
秋の夜に山裾から秋ムシのキリもなく一匹の鳴き声が響き呼ぶ。
チリリーチリリーチチリリリンと、何を呼ぶのか答えなく、泣いている。
鳴き止むと周りの鳴き声が俄かに騒ぎ出す。すると思い出したようにチリリチリリと泣き始める。パガニーニのカプリスの曲のように止まらなくなるのだ。目を閉じればいつもそこにキミがいて、開ければポートレートで笑う。いつもの事で、それで時が過ぎて季節がめぐる。
今は、中秋の名月を待つ秋の夜なのです。《繊月抄記》
「禅底花の花」
ふと気付くと、余韻の中でずっと何かが追ってくる。言い残した言葉なのか。吐き出した言の葉だろうか。
若い頃に詩と別離した言葉の羅列からはみだして来る怒号なのだろうか。半世紀の時を過ごせば覚悟も湧くし、舞い戻ってきた歓迎の挨拶なのか分からないのでいるが。すこし文章が書けるような気がする。
むなしく長雨が降り続き物思いにふけっている間に花の色が、すっかり褪せてしまいました。と嘆いてる情熱の歌人小野小町女史もしんみりしているのでしょう。
かつて中禅寺湖で静養してた頃に出掛けて見ていた日光黄菅の別名が禅庭花(ゼンテイカ)なのだ。この花が自生する戦場ヶ原を中禅寺の庭に見立てたことからその名が付いた。花言葉の「日々あらたに」は日光黄菅が朝方に開花し夕方には萎んでしまう覚悟の一日花であることからそう言われているそうだ。《繊月抄記》
禅底花戦場ヶ原の庭として
日々新たなる夢を咲かせて |繊月