漱石と「自然派」
小説「坊っちゃん」は、四国松山が舞台の勧善懲悪を主題とした物語である、というのが衆目の一致するところのようだ。
また、自然派(または自然主義文学)が主流であった当時の文壇に、敢えて「勧善懲悪」という旧態依然とした主題で殴り込みをかけたというような解釈も散見する。
当時の漱石は「反自然派」「余裕派」の作家などといわれ、何かにつけて自然派と比較された。
無論、当の本人がそう自認していたわけでも公称していたものでもない。
それ許りか周囲の斯様で勝手気儘な決め付けに対し、甚だ困惑していた様子が伺える。
『……ところで世間では私を自然派と目しておらん。自然主義を主張する人は、間接に私を攻撃しているように外面上見える。この意味からいえば、私はとっくに弁じていなければならんのだ。けれども今までなんにもいわない。いえなんだかもしらんが、まアいわなんだほうだ。なんとなれば、私は自然派が嫌いじゃない。その派の小説も面白いと思う。私の作物は自然派の小説とある意味じゃ違うかもしらんが、さればとて自然派攻撃をやる必要は少しも認めん。誰が書いても出来損ないは悪く、善いものは善いに極まっているんだから。そこでことさらになんという意見も発表しなかったわけなのだ。』(『坑夫』の作意と自然派伝奇派の交渉より)
また、「初戀(初戀の詩)」で知られる浪漫派の詩人島村藤村は、自然派の作家田山花袋の「蒲団」に衝撃を受け、一九〇六(明治三九)年三月に自費出版で一編の小説を発表した。
「破戒」である。
漱石はこれに対し門下の森田草平に宛てた手紙の中で「明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ」と最大の賛辞を送っている。
いうまでもなく同作は、自然派文学を代表する作品である。
前掲した通り、漱石にとって作品の善し悪しは、主義主張志向派閥に依らず、前後上下左右も関係なく「誰が書いても出来損ないは悪く、善いものは善いに極まっている」唯それだけなのだ。
「自然派攻撃をやる必要は少しも認めん」と語る漱石である。態々『坊っちゃん』をして「自然派」へのアンチテーゼとするなど、何をか言わんやであろう。