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招かれざる客

今年も奴らがやって来た。毎年必ずやって来る。何処からともなくやって来る。呼んでもないのやって来る。
私はとても敏感なので、大分前に気付いていたよ。こいつはどうも怪しいぞって、敏感だからわかるんだ。見縊んなよ、この目と鼻を。

もうね、1年の3分の1、マスク着用。コロナ終わろうが何しようが、私には関係ない。
「薬飲めばいいじゃん。」したり顔でそんな軽口叩く奴がいる。そんな時私は、ああこいつは所詮素人だなと思う。正直蔑んだ目で見るね。知った口叩いてんじゃねえぞ、カス。

大変失礼した。ついつい苛ついて乱暴な口を利いてしまったが、それは奴らがやって来たからだ。奴らがやって来ると、俺の心はひどく陰気になり、不安になり、憂鬱になり、空虚な気持ちになる。花粉の奴らめ!
こんな気持ちわかるでしょ? 同じ花粉症罹患者なら誰しも激しく同意する筈だ。

なんせ桜、桜といえば花見。花見の季節と花粉の季節は大概被る。大体毎年いつも確実に被る。そんな訳で私は花見はやらない。
今でこそ花見をやらないというだけで、経験がないわけではない。何故なら私も以前は健常者であった。その頃は毎年瞳を据えて桜の花を見ながら何の不安も憂鬱も感じずに宴の輪に加わった。
そんな私の健康は高校を卒業した辺りから怪しくなり二十歳を迎える前にはすっかり損なわれ、もう立派な難病の花粉症罹患者となった。正かこの私が選りにも因って斯様な不治の難治性の厄介な花粉症を患うなんて露にも思わなんだ。

さて、斯様な難病を抱えた私だが、罹患後に花見の席に呼ばれてはホイホイ顔を出したことが2、3度ある。止せばいいのに阿保面下げて、爛漫と咲き乱れている桜の樹の下に水晶のような鼻を垂らしに行ったのだ。勿論、30分と居られなかった。目が痒い、くしゃみが止まらない、花見どころではない。早々に私だけ切り上げた。

――桜の樹の下にはしたいが埋まつてゐる! (梶井基次郎「桜の樹の下には」)

そうなのだ。桜の樹の下に埋まっているものを梶井基次郎は知っていた。分かっていた。流石である。我々花見を諦めざるを得なかった花粉症罹患者の、積年の恨み辛み妬み嫉みやっかみや不安で陰気で空虚で憂鬱な気持ち、つまり「したい、したい、花見がしたい」が埋まっていることを。

そんな私が最後に花見に呼ばれて行ったのは、25の時だ。その日は、直前に薬を飲んで行った。誘われてから2、3日不安だったが、薬を飲めばいけそうな気がした。果たして、酒をしこたま飲んで直ぐに気分が悪くなった。薬にアルコール、これがマズかった。しくじった。皆は心配した。もう酒宴どころではない。斯うして私の憂鬱は完成されたが、皆には惨劇など勿論不要であった。楽しい宵が台無しである。申し訳ない気持ちで一杯であった。迷惑な酔客となった私は、タクシーを呼んでひとり家路についた。以来花見の酒宴に距離を置いている。反省してます、ご免なさい。

しかし、嘗て迷惑な酔客を演じた私は、どうやら最近憂鬱に渇いているようだ。そして梶井基次郎にはお見通しだった。

――今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいてゐる村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めさうな気がする。 (梶井基次郎「桜の樹の下には」)

梶井基次郎は天才、て言う話でした。


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