町火消し「大組」考
嘗て東京が江戸と呼ばれた頃、町には「いろは四十八組」と言うものがあった。
これは諸君もよくご存じのことと思う。
これについては何時か機会があれば取り上げてみたい。
今回ここでは、あまり聞き馴染みのない、「大組」について取り上げるようと思う。
其の壱 「いろは四十八組」小組から大組へ
「いろは四十八組」が組織されて程なく、いろは各組を五組程度をひと組とする十組の「大組」が組織された。
この十組の「大組」は後の改革で、「四番」は「五番」に、「七番」は「六番」に吸収統合され欠番扱いとされ、一番組から十番組までの実質八組となり、担当地域と担当組が割り振られた。
割り振られた担当地域と担当組を纏めたものを次に掲げる。
因みに、「いの一番」とはここより出た言葉である。
一番組 い・は・に・よ・万(五組)
日本橋北から神田川南、東は隅田川まで
二番組 ろ・め・も・せ・す・百・千(七組)
日本橋南から浜松町、東は隅田川まで
三番組 て・あ・さ・き・ゆ・み(六組)
芝金杉から高輪、白金、目黒
五番組 く・や・ま・け・ふ・こ・え・し・ゑ(九組)
麹町、四谷、赤坂、青山、広尾
六番組 な・む・う・ゐ・の・お(六組)
牛込、小石川、市ヶ谷、早稲田
八番組 は・わ・か・た(四組)
浅草門外、外神田、湯島、本郷、下谷、池の端
九番組 れ・そ・つ・ね(四組)
駒込、巣鴨、千駄木、谷中
十番組 と・ち・り・ね・る・を(六組)
浅草、今戸、山谷、三ノ輪
(岩崎美術社刊『江戸三火消図鑑』より編集作成)
其の弐 嫌忌―赦された数
前章で「大組」が十組から八組に再編されたことに言及したが、では何故そんなことになったのだろうか?
江戸時代には四、七、九の数は嫌忌されていた。そのため町火消に於いては四、七番組は欠番とされたといわれている。
『……まず、世間にて数につき、七、九、四などの数をいたく嫌忌するがごとし。 昔時、江戸火消しの数に、いろは四十七字を用い、これが組を分かつに一、二、三の数によりたりしが、この一、二、三の名称を与うるにも、特に四と七との名称はこれを省きたり。……』(井上円了『妖怪学』より)
つまり「四」は「死」に、或いは江戸っ子は「し」と「ひ」の発音が混同するため「火」に通じるから、そして「七」は「質」に通じるため嫌忌され、これら番号を欠番とし、実質八組としたというのである。
では何故「苦」に通じるからと嫌忌される「九」は残されたのか?
むすび
消火活動は迅速さを求められる。燃えやすい木造家屋の密集した江戸市中なら尚更である。
私は、このことが「九」を外せなかった、というより寧ろ「不可欠」だった理由なのではないかと考える。
つまり……
火消は「急」を要す
故に「九」を要した
お後がよろしいようで