もののけのけ 抄 beginning
其壱夜 けのけ
これがそれさ
安岸丸はハーフパンツの左前ポケットから5センチ四方の、塗装の施されていない無垢の小さな桐箱を取り出した。それを私に見えるようにテーブルの上に置き、その蓋を開けた。
私は、その小さな桐箱に顔を近づけ、中の物を息で吹き飛ばして仕舞わない様、口元に左手を遣り乍ら、慎重にそして怪訝そうに「それ」を見つめた。
見せたいものがあるから、会わないか?
安から、私のスマホにメッセージが届いたのはその日の昼過ぎだ。なんでも「物の怪の毛」がある、と言うのである。
安と言えば非常な堅物で、冗談を真に受けることはあっても、決して他人(ひと)を担ぐなどと言う事のない男である。
斯様な男がそう言う以上、「物の怪の毛」とやらを彼は本当に何処からか手に入れたのだろう。
私は、夕飯がてら会おうと返し、何時もの碑文谷の「カフェ・ダッディ」に赴いたのだった。
どうだ、何もないだろ?
安はニヤリと笑った。
だけど、あるんだ
そう言って安は、又ニヤリと笑うのだ。
何もない、私がそう答えると、安は私の右手を執り、私の人差し指をその何もない筈の桐箱の底にソッと押し当てた。
どうだ、感じたろう?
私の右手の人差し指が、何もないように見えたその桐箱の底に触れた時、私はそこに何物かがあるのを、その指先を通じ確かに感じた。それは正に、毛の感触であった。何の毛と言って、例えるのは難しいのだが、フサフサとした何かしらの毛が、その桐箱の底には確かに在るらしかった。
そいつが、「物の怪の毛」だ
安はそう言って非常に誇らし気であった。
安が「物の怪の毛」があると言うので、私はてっきり、子泣き爺(じじい)の鼻毛やら砂かけ婆(ばばあ)の陰毛やらそんな結滞な代物を想像していたのだが、どうやら違うらしかった。
実にややこしい話なのだが、「物の怪」の「毛」ではなく、この「毛」こそが「物の怪」なのだと、安は言うのだ。
この毛は何かするのか、安に聞いてみたところ、特に何もしないのだと言う。
見えないのに、あるんだよ
それは困るだろ? と安は言う。まあ迷惑だなと私。
実はこのことを切っ掛けに、としか思えないように、安は「物の怪の毛」に取り憑かれることになる。
この時はまだ、私も彼も知る由もないのだが。