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創作大賞2024の中間発表を聞いて

みなさんおはようございます。先日noteの公式から創作大賞2024の中間発表がなされました。どういう作品がランクインしているか気になって見てみました。そうしたら全然知らないアカウントばかり。実際フォロワーさんに選考を突破した人はいるのかと思って読んでいたら、1人だけいました。50,000以上の作品が投稿されてそのうちわずかな作品が一次選考を突破できたことを考えると、その作者さんたちはすごいの一言です。

実を言うと私も投稿してみましたが、全くかすりもしませんでした。おそらく公式があっと驚くような内容でなかったこと、また文章の書き方等未熟な部分が多かったと考えられます。選考基準も明らかになっていないため、どうやって書いたらいいのかもわかりませんね。

しかし残った作品からどうやって書いたら公式に認められるかといった傾向を掴むことはできそうです。エッセイ部門を読んだ感じでは逆境について書かれていたものが多かったですが、それと同時にどうやって乗り越えたのか、それが如何に貴重な体験だったのかをしっかり語っていました。これを読んで、まず自分には他人に語れるほどの逆境体験はないでしょう。おそらく語ったところで鼻で笑われるに違いないです。その意味では印象に残らないものになります。

また、どの作品も唐突に始まっており導入がありませんでした。思えば私は話をする際どうしても癖で導入部分を書いてしまいます。そうした導入部分を入れてしまうことで、相手に読ませるという感覚を抱かせてしまうという問題が起きたと考えられます。これだと下心のようなものが見え隠れしてしまいますし、公式からしたら不快感を持たれてしまうことでしょう。本当に読みたいと思える文章って導入することはなく、突然に物語が始まる印象があります。思えば村上春樹氏の小説なんかも飛行機の中にいた、といった感じでこれから何が始まるのか読み手をワクワクさせる作りになっています。私の文だと導入部分を入れてしまっていたため、結論が分かってしまうのが問題だと思いました。

これは職業病のようなものもあるかもしれません。仕事で会議を行う場合でもどうしても結論ありきで話をしてしまいますし、挨拶から入るのように形を大事にしています。そしてどうやってその結論に導くのか過程を描きます。方向性も決めずに会議をするようなことは普通はしないでしょう。

ただ、エッセイや小説となると結論が分かってしまっていては面白くありません。また今後の展開が予想できるような書き方をしてしまうとやはり読者にとっては面白くないものとなってしまうでしょう。そうなると見出しや題名から考え直さなければなりません。例を挙げると私は「ベンチで獲った1点」というエッセイが中間発表でありましたが、これだとどうやったらベンチで点が取れるのか、って不思議に思えます。しかも取るではなく、獲るです。こうした漢字の違いを上手に使っていました。一方で私は「ケーキ屋さんになりたい」と見出しを書いたため、これだとケーキ屋さんになるためにどうしたらよいか、と結論ありきの話になってしまいます。これだと読んでいても驚きはありません。驚きがなければ公式としても目に留めないでしょう。

それにしても他の人の書かれた文章を読んでいると本当に学べることが多いです。ただこういう時は学ぶという感覚も捨てた方がいいのかもしれません。学ぶという意識に支配されていることで、独創性は失われてしまいます。まず自分は型にはまりすぎていることを意識した方がいいでしょうね。

その意味では創作と情報を分けて考えなくてはなりません。新聞のような情報の記事だと見出しが大事でそれでどういう内容なのか予想できるようにすることが大事ですが、創作の場合は結末が予想できないように書く必要がありそうです。そうしなければ最後まで読んでもらえないでしょう。今後記事を書く際は創作なのか情報なのか分けて考える必要がありそうです。これはビジネスにどっぷり浸かった私が今回選考に残った作品を読んで認識したことです。

それでは創作大賞2024の中間発表の記事を以下に載せます。本当に良い作品ばかりなので、みなさんも読んでみるといいと思います。それではこの中でどの作品が最優秀に選ばれるのか。今後もnoteに目が離せません。


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ブルーベリー博士(家庭菜園投資家)
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