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ほんとうの優しさ、とは。

涙の浄化作用

 あの名作「大地」三部作から作家のパール・バックが好きになり、彼女の手記「母よ嘆くなかれ」にたどりついたのであるが、私は、初めてこの手記を読んだとき、通勤の電車のなかで、人目もはばからず、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。 
 誰でも、生きていたら、どうにもことばにあらわしようがない深い悲しみが、ひとつやふたつあるものだ。 
 ことばにあらわせないぶん、悲しみは心の奥に沈澱していく。でも時折、底から激しく噴きあげて、日常の平穏を壊す。 
 パール・バックのかみしめるようなひとことひとことは、心に沈澱して行き場を失った悲しみをそっと溶かしてくれる。
 この涙は、「浄化」の、さらさらと流れていくような涙だ。

母と娘の悲しい旅

 パール・バックは、娘の病気(知的な発達の困難)をなんとしても治したいと、アメリカ中の名医を転々とする。
 その母と娘の悲しい旅は、アメリカのメイヨー病院で終わることになる。

毎日のように精密検査を受けました。これだけの研究と知識があれば、必ず真実がわかり、どうすればよいのかわかるにちがいない。わたしは自信がわいてくるような思いでした。

パール・バック著
伊藤隆二訳
母よ嘆くなかれ
法政大学出版局1993

 パール・バックは、最終診断で小児科部長の部屋に呼ばれる。
 小児科部長は首を振る。
「原因はわかりません。しかしあきらめずにいろいろやってみます。」
 彼女が、失意のなか部屋をでて廊下を歩いていると、よびとめるひとがいた。

そのときわたしには、生涯感謝しなくてはならない一瞬が幸運にも訪れたのです。

前掲

過酷な真実を見なさい。

 呼び止めたのは、さきほど、小児科部長とパール・バックのやりとりをそばで聞いていたドイツ人の医師だった。医師はそっと手招きで彼女を呼ぶと、人気のない部屋についてくるようにいった。

 彼は、部屋に入ると、不正確な英語で話し始めました。その声は荒々しく、目はじっとにらんでいるようでした。
「奥さん、このお嬢さんは決して治りません。空頼みはおやめになることです。あなたが望みを捨て、真実を受け入れるのが最善なのです。でなければ、あなたは生命をすり減らし、家族のお金を使い果たしてしまうことでしょう。お嬢さんは決してよくならないのです。
 おわかりですか?わたしにはわかるのです。
アメリカ人は甘すぎるのです。わたしは甘くはありません。
 あなたがどうすればよいかをわかるには過酷なほうがよいのです。
 奥さん、準備をなさってください。とくに、お嬢さんにあなたのすべてを吸い取ってしまうようなことをさせてはなりません。
 (治療教育にお嬢さんを託して)あなたはあなたの生活をなさってください。
 わたしはあなたのために本当のことを申し上げているのです。」

前掲

本当の優しさとは

 わたしはそのときのわたしの感情を筆であらわすことができません。
 同じような瞬間を通ってきたことのあるひとには、語らずともわかっていただけるでしょうし、その経験のないひとには、どんなことばを使ってもみてもわかっていただけないことですから。
 それを表現する道があるとすれば、わたしの心は絶望して血を流している、そう申し上げるよりほかありません。
 あの最後の審判が下ったときにわたしはそれを受け入れることができました。
 すでにわたしは無意識のうちにそれを認めていたからです。
 お名前も存じ上げないあのお医者さんにたいするわたしの感謝の気持ちは決して消え去ることはないでしょう。
 あのお医者さんは、わたしの傷を深く切開しましたが、その手際は鮮やかで、しかもすみやかでした。

前掲

 本当の優しさとは、こういうことをいうのかもしれない。
 カウンセリング関係も、カウンセラーが未熟であると、クライエントに嫌われることを怖れて共依存の関係になりやすいことがある。わたしは未熟な人間なので、「冷たいひとになろう」といつも自分に言い聞かせている。「こんなひとに聞いてもらうくらいだったら、自分でなんとかしよう」そう思って、より大きな世界につながっていってくれたら、それが一番よいではないか。
 人生は、孤独な旅なのだ。この「狂った世界」から脱出するかどうか覚悟を決めるのは、その人にしかできない。中途半端な優しさは、そのひとを遠回りさせるだけだ。
 通りすがりの冷徹なドイツ人の医師は、パール・バックの診断を求めての全米行脚を終わらせた。
 彼女は、その後、娘の治療教育への費用(当時のアメリカは高額の自費だったらしい)を作るために必死で文筆に取り組み、ノーベル賞、ピュリッツァー賞を取ったと聞いている。

 浄化の涙のなかで、本当の優しさについて、深く考えさせられた。

 ちなみに、後年医学の進歩とともに、パール・バックの娘さんの病気は、フェニルケトン尿症であったことが判明したようである。現在この疾患は早期発見によって知的能力が向上することが知られている。



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