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「不快」と友になる
今の職場は朝礼の際に「3分間スピーチ」という時間があるのですが、つい先日同僚がしていたスピーチがすごく印象的でした。
その内容はこんな感じ。
「快感ばかりを取り入れていたが、最近あえて不快を受け入れるようにした」
「不快を受け入れることで新しい感情や伸びしろに出会うことができる」
これがものすごく好きで印象に残ったので、ちょっと深掘りしてしゃべってみます。
思えば、自分を成長させてくれた感情は大半が快感よりも不快感だったりする。
野球を勉強し始めたのは楽しさに加えて過去の劣等感があったからだし、
モテたい!と思ってルックスや内面を磨き始めたのも、学生時代にクラスで馴染めず「人間的に」モテる経験をしてこなかったコンプレックスが根本にある。
日本史指導を磨こう、歴史をじっくり勉強しようと思ったのは同僚の世界史指導が面白すぎて敗北感を覚えたからだった。
もし人生に一切不快感がなかったら、今の自分より苦痛が少なく小さな幸せに包まれた人生だったかもしれない。
けど、今よりずっと怠惰で思考しない人間になっていたのは間違いない。
そして、自分は強欲なので残念ながら小さな幸せ程度で満足できるような人間ではない。
幸せになろう、やりたいことで生きよう、と考えると自らの暮らしから不快を取り除きたくなるけど、
そうして排除してきた不快の中には自分を幸せに導いてくれる不快があったかもしれない、と最近思う。
例えば、
「人からとやかく言われても気にしない」
「自分は自分。離れていくならそれでいい」
なんて決めておくのもいい。
けど、そのとやかくの中には自分一人では気づけなかった伸びしろが隠れているかもしれない。
僕は失敗も批判も怖い。
失敗するたびにパニックを起こしそうになる。できることならしたくない。
けど、失敗することで得られる気づきがあることも知っている。
そして、その得た気づきが次の成長に繋がる宝であることも知っている。
だから、失敗から逃げないと決めている。
批判や失敗から伸びしろを見出せたら、それこそ人間的に深みがあるんじゃないかなあ…なんて思う。
不快と向き合うのはキツいしめんどくさい。
けど、そういうものたちとあえて向き合ってみるのもまた一興。
なーんて思った今日この頃でした。