36回目の12月30日 Vol.3
History 7 更なる前進
1986年 私はこの年の春から1年間、地元の理容美容専門学校に通っていた。理由は家の後を継ぐためである。前作でも書いたが私の実家は両親で理容業を営んでいた。自慢になってしまうが親父の腕が抜群に良かったのもあり繁盛していた。
親が商売をしていれば子供が親の後を継ぐという否応ないプレッシャーにも似た風潮は今も昔も変わらないだろう。長男である兄貴はもともと後を継ぐ気が全くなく、次男の私自らが後継ぎに名乗りを上げてこのような専門学校に通う事になった。
その理容美容専門学校で同じクラス内にパンク、ハードコアパンク好きな女の子がいた。年齢的に私より年下だが趣味が共通している事もあって仲良くなるには時間など全くかからなかった。私がハードコアパンクバンドをやっている旨を話したところ、その女の子は東京で活動しているハードコアパンクバンドとかなり親しい中らしく、そのバンドのリーダーを紹介してくれるとの事でそのの段取りもしてくれると約束してくれた。どんな形であれ東京進出のきっかけに渇望していた私や他のメンバー達にとってこれは非常に有り難い事この上なかった。
しかも紹介してくれるバンドのリーダーは自身でも自主制作のレーベルを運営しているというのだから私達の期待も非常に高まった。
この頃の私達は相変わらず学校が終わる夕方頃からMoochin宅に集まってMANZOはそこから近くの定時制高校に通うというルーティンが続いていた。東京のライブハウス通いも続いていてシーンの中心に触れていた傍ら、たまに地元の宇都宮のライブハウスがそういったバンドのライブを企画してくれて当然私達はそれを観に行って楽しんでいた。
スタークラブ、ガスタンク、ラフィンノーズ、有頂天などと当時としては錚々たるバンドが宇都宮に来てくれたものだと思う。
一方バンド活動の方はスタジオに籠る事が多かった。新曲を作ったり、既存のオリジナル曲を練り直したりと全ては何もツテが無いにも関わらずただ漠然と東京進出を意識しての行動で3人のうち誰かが言い出した事でもなく自然とそうなっていた。
この頃、私の知らないところでMANZOとMoochinがMoochin宅でかなり練習していた事をだいぶ後になってMANZOから聞かされた。
実際この時期のMoochinのギターが
日々上達していたのは私も否応無しに感じていた。
そして前述の約束の日を迎えた。
その東京のハードコアパンクバンドは「T.D.F」というバンドだった。バンドリーダーの小林氏は「ASIA RECORD」という自主制作レーベルをバンドをやりつつ運営していた。初めて会って以来、私は小林氏の福生市の自宅に何度か遊びに行くまでの仲となった。更には私が企画した地元宇都宮のライブにも「T.D.F」が出演してくれた。
小林氏とどんな会話のやり取りをしたのか失念してしまったのだが小林氏が運営するレーベルからレコードを出さないか、と言われ私達メンバー3人は即答でOKした。
実際にはシングルサイズのドーナツ盤ではなくソノシートでのリリースとなるのだが、その時の私達にはそんな事どうでもよかった。
私達3人共レコーディングなどした事も無く、レコーディングに関しての知識など全くの皆無な私達だったが自分達の作品を出せるという夢のような話にすぐに飛びついた。
History 8 ソノシートリリース
そしていよいよレコーディングの日を迎えた。
事前に小林氏がレコーディングするスタジオを押さえてくれていてレコーディングの際は小林氏も立ち会ってくれる事となり私達にとっては非常に心強かった。
スタジオは東京の立川市。当時小林氏が贔屓にしていたスタジオだったようである。スタジオに入って右も左も分からない私達に小林氏がレコーディングに関する説明があった。その説明によると音録りは俗に言う「一発録り」との事。この時点で私達3人は顔を見合わせて
「一発録り??」「何だそれ?」
既に動揺してる私達に小林氏が丁寧に説明してくれた。各パート事に音録りするのではなく、合図の元に一斉に全員で演奏したものを録るという内容だった。それなら普段のスタジオリハと変わらないと理解した私達はようやく安堵した。
4曲録ったが普段からスタジオでやり込んでいるおかげで失敗無しで4曲とも一発OKで録り終えた。その後、一部ギターの重ね部分を録って唄とコーラス入れの作業を済ませた。初めて経験した最高潮の緊張感から解き放たれひと段落していると小林氏から
「じゃこれからミックスダウンね」
と言われまたも私達3人は今まで聞いた事のない単語を聞いて同時のタイミングで顔を見合わせた。
「ミックスダウン?」
何も分からないままミキシングルームに連れられ中に入るとエンジニアの方が先程撮り終えたばかりの私達の曲をスピーカーを通してそこそこの大音量でかけてくれた。それだけで感動している私達にエンジニアの方から言われる内容全てが「?」の連続だった。「リバーブ?』「ドンカマ?』
など私達はまるで大昔からタイムスリップしてきた人かのように余りに訳が分からない言葉の連続に恐怖さえ感じた。結局小林氏のアドバイスを元にミックスダウンを終えレコーディングは無事に終了した。
未知の体験だったレコーディングを終えてしばらく後に小林氏から私達の作品が完成した連絡が入り、それから程なくうちにその現物数十枚が郵送で私達の元に送られてきた。
赤い盤のソノシートでジャケットは私の手書きである。私達はそれを手に取り深い感動に包まれていた。300枚プレスでこれを都内のインディーズレコードショップ数店に置いてもらい販売するという内容の説明を小林氏から聞いて私達は以前から憧れていた東京のアンダーグラウンドシーンのスタートラインにようやく立ったような想いに浸っていた。
「やっと東京で一歩踏み出せた!」
まさにこの一言に尽きる私達の晴々とした気持ちだった。あまりの嬉しさに私達は作品の発売後、どのような感じで販売されてるのかが興味津々で都内で販売してくれてるインディーズレコードショップに赴いた。店内に入るとなんと私達の作品の曲が店内でずっとリピートされて流されてるではないか!
そして店内に陳列されてる私達の作品を見て思わず顔が綻んだ。ずっとそこに居たいぐらいの気持ちだったと言っても過言ではない。
この発売後から私達の作品は良い意味で私達はおろか小林氏も把握出来ないくらいの流通経路を辿った。当初、都内のインディーズレコードショップ3店に置いてもらい販売していたが、気が付いたら東京以外のインディーズレコードショップでも販売されていたり更には海外までにも流れていた。地元の小さなインディーズレコードショップでも販売されていたのにはさすがに驚いた。
そうなった原因も小林氏が調べてくれたところ、嬉しいことに各インディーズレコードショップの方達が私達の作品を気に入ってくれて彼等の繋がりのあるお店にお勧めする形で方々に広めてくれたようだった。そんな有難い手助けもあって300枚は完売となった。今では特に一部の海外コレクターが欲しがる作品となった事を私は心から誇りに思う。
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