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“ハードヒット”のその先に──いま注目される“ある脳の問題”とは?
要旨
コンタクトスポーツと呼ばれるラグビーやアメリカンフットボール、サッカー、野球、格闘技などの競技では、プレイヤー同士の激しいぶつかり合いや転倒、衝突が日常の一部として繰り返されます。すると、頭部への衝撃や軽い打撲が数多く発生し、それらが積み重なることで、後々思いがけない“ある脳の問題”へつながる可能性があるのではないか――。近年、そのリスクが指摘され始めたため、多くの研究者や医療関係者が真剣に向き合っています。
もちろん、スポーツが私たちに与えてくれる恩恵は言うまでもなく大きく、それを否定するものではありません。適度な運動やチームワーク、スピード感や迫力など、スポーツは健康や人生の充実に計り知れない価値を与えてくれます。ただし「楽しいはずの時間に潜むかもしれないリスク」に対して、正しい知識や対策を知ることは大切です。
そこで今回のコラムでは、「コンタクトスポーツの頭部衝撃」という切り口から、そのリスクがどのように発生し、どのようなメカニズムが関わっているのか――という視点で考察しています。加えて、海外の研究結果や国内外での取り組み、将来的な予防策への展望も紹介。まだまだ解明が進行中のため、断定できない部分もある一方で、すでに見え始めているヒントも少なくありません。
頭の片隅に留めておきたい、でもまだ十分に知られていない“ある疾患”。このコラムでは専門用語をできるだけ噛み砕きながら、一般の読者でも読みやすいようにまとめています。スポーツの楽しさを存分に味わうためにも、まずは一度、この問題に目を向けてみませんか?
1. はじめに
私たちは日々、さまざまなスポーツを通じて健康増進や楽しみを得ています。特にラグビーやアメリカンフットボール、サッカー、野球、さらにプロレスなどの「コンタクトスポーツ」は、迫力あるプレーやスピード感が大きな魅力です。一方、これらの競技は選手同士の激しい接触や衝突などによって、脳しんとうや頭部外傷が起きやすい可能性があることが繰り返し指摘されてきました。
近年注目されているのが、そうした頭部への衝撃が長期的に脳機能へ悪影響を及ぼすと考えられている「慢性外傷性脳症(CTE)」という疾患です[1-3]。かつては主にボクサーのパンチドランカー症候群として知られていましたが、近年はアメリカンフットボール、サッカー、ラグビーなど、激しい接触がある競技においてもリスクが潜んでいると議論されています[2,4]。さらに軍隊での訓練・戦闘など、スポーツ以外の領域にも関係する可能性が示唆されています[1,8]。
このコラムでは、一般の方にも理解していただけるように、CTEの概要と原因・症状、そして国内外の研究動向や対策、リスクを下げながらスポーツを楽しむためのヒントなどを紹介します。スポーツの持つ素晴らしい恩恵を守りながら、安全性についても改めて考える契機になれば幸いです。
2. CTE(慢性外傷性脳症)とは
2-1. 定義と背景
CTE(Chronic Traumatic Encephalopathy)は、繰り返しの軽度あるいは中程度の頭部外傷が原因で、脳内にタウタンパク質(特に過剰にリン酸化されたタウ)が蓄積し、長期的な脳機能障害を引き起こすとされる病気です[1-3,5]。もともとは「ボクサー脳症」とも呼ばれ、長年にわたってボクシング選手で多く見られる異常行動や認知機能の低下を説明する病理として研究されてきました。
しかし、解剖学的な研究が進むにつれ、アメリカンフットボールやアイスホッケー、さらにはサッカーなど、頭部に反復的な衝撃を受ける可能性の高い競技経験者の脳でも、同様の病理所見が確認される例が報告されるようになりました[5,6]。このことからCTEは「特定の競技だけの問題」ではなく、より広範なコンタクトスポーツ全般で気を付けるべき疾患だと考えられています。
2-2. 病理学的特徴
CTEは脳内深部(大脳皮質の溝付近)を中心に、過剰リン酸化タウの異常沈着がみられる点が大きな特徴です[2,3]。他の神経変性疾患(アルツハイマー病、パーキンソン病、ALSなど)においてもタウの蓄積は見られますが、CTEのタウ蓄積パターンはこれらの疾患とは異なる特性があります[4,6]。さらに、解剖レベルでは脳室の拡大や脳梁・中隔透明体周辺に生じる異常なども報告されており、こうした変化が進行することで認知機能障害や情動・行動面での問題が引き起こされる可能性が示唆されています[6,9]。
2-3. 臨床症状と診断の難しさ
CTEでは、以下のような症状が段階的に現れると報告されています[3,9]。
記憶力低下、集中力の欠如などの認知障害
抑うつや易怒性などの感情障害
衝動的行動や人格変化
運動機能の低下
ただし生前に確立された診断法はなく、最終的な確定診断は死後の脳解剖によって行われるという点がCTEの大きな課題です[2-4]。画像診断や血液検査などによる早期発見の研究は進んでいるものの、まだ決定打となる検査方法は確立していません。
3. なぜコンタクトスポーツでリスクが高まるのか
3-1. 頭部衝撃の蓄積
コンタクトスポーツでは、競技中に繰り返し頭部へ衝撃が加わる可能性が高くなります。アメリカンフットボールのタックルやラグビーのスクラム、サッカーのヘディングなど、身体接触は不可避であり、その度に脳への微小なダメージが蓄積されるリスクがあります[1-2]。また、野球でもキャッチャーがファウルチップでマスク越しに衝撃を受けるケースや、守備・走塁での接触プレーなどが挙げられます。さらにプロレスや総合格闘技のように、投げ技・落下技などで強い衝撃を受ける機会が頻繁にある競技も同様のリスクが指摘されています。
3-2. 反復する軽度外傷の影響
CTEの特徴は、脳しんとうがはっきり起きるほどの「大きな衝撃」だけでなく、「軽度の衝撃」を繰り返し受けることもリスクとなる点です[1,3]。つまり、必ずしも一度の激しい外傷だけではなく、目に見える症状が出ないような小さな打撲・衝突が積み重なることで、長期的なダメージを生む可能性があります。したがって、自覚症状や目立った怪我がない場合でも、繰り返し頭を打っている環境に長く身を置くこと自体が問題になり得ます。
4. 事例・研究動向
4-1. 海外における報告
アメリカンフットボールリーグ(NFL)の元選手の脳を調べた研究では、かなりの割合でCTEが確認されたとの報告があり、大きな衝撃を与えました[5]。これを受け、NFLやカレッジフットボールのレベルで脳しんとう対策が強化されるようになりました。たとえばタックル時のヘルメットの改良、独立した医療スタッフの試合会場常駐、プレー中に衝撃が強いと判断された場合に即座に試合から退かせる制度などが導入されています[2,4]。
一方で「CTEとスポーツにおける頭部外傷の因果関係はまだ不明確な点が多い」という指摘もあり[4]、特に軽度の反復外傷の影響や、遺伝的素因、生活習慣(アルコールや薬物使用)などの複合的要因も考慮する必要があると議論されています[1,6]。
4-2. 国内外の対応策
サッカーにおいてはヘディングの頻度を制限するガイドラインを設定する動きが、イギリスなどで進められています。また、ジュニア年代にはヘディングの練習を避ける・制限するといった方針を採用している地域もあります。ラグビーではタックルの高さや仕方についてのルール改正が行われ、安全性向上を図る試みが継続的になされています。
さらに、学校やユース年代での指導者向けの研修プログラムや、選手自身が脳しんとうの初期症状を知り、周囲の大人が適切に対処できるような啓発活動も広がっています[1,3]。こうした取り組みはあくまで「脳しんとうの予防」や「早期発見」を目的とするものであり、CTEの発症を完全に防げるかどうかは別の問題ではありますが、重要な第一歩といえます。
5. 私たちが知っておくべき「脳しんとう」の基礎知識
5-1. 脳しんとうの兆候
コンタクトスポーツを行っているとき、最も身近な頭部外傷が「脳しんとう」です。脳しんとうとは、外部からの衝撃により脳が一時的に機能障害を起こす状態を指します。代表的な兆候としては以下が挙げられます[3]:
頭痛、めまい、吐き気
一時的な意識喪失、記憶障害
混乱や集中力の低下
視覚障害、耳鳴り
これらの症状はプレー中の興奮状態やアドレナリンの分泌によって本人が気づきにくかったり、周囲も見逃しがちだったりします。しかし軽度の脳しんとうでも繰り返すことで大きなリスクとなる可能性があるため、早期発見と迅速な対処が鍵となります。
5-2. 脳しんとう時の対処
脳しんとうが疑われるときは、まずプレーを中断させ、選手を安全な場所へ移動させることが大切です。そして、医療の専門家による評価を受けるまでは競技への復帰を控えることが推奨されています[3,4]。症状が軽く見えても、繰り返し衝撃を受けることで深刻化する恐れがあるため、軽率な判断は禁物です。休養期間中は頭を振動させるような激しい行為は避け、医師の許可が出るまで完全回復を待つことが重要です。
6. スポーツのメリットとのバランス
6-1. スポーツの魅力と恩恵
コンタクトスポーツには、スピード感や迫力、チームワークなど多くの魅力があります。スポーツを続けることで体力や協調性、リーダーシップなどを育むことができるため、子どもから大人まで幅広く親しまれています。健康的な生活を送る上でも適度な運動は欠かせません。したがって、「リスクがあるからスポーツをやめる」という極端な結論に至るのではなく、リスクと上手く付き合いながらスポーツを楽しむ道を模索することが大切です[2,3]。
6-2. リスク軽減のための取り組み
リスクを最小限に抑えつつスポーツを続けるためには、以下のようなアプローチが挙げられます。
防具の適切な着用と進化:よりクッション性能に優れたヘルメットやマウスピースの導入。
テクニック指導の徹底:正しいタックルフォームやヘディング技術など、安全面を考慮した指導。
定期的なメディカルチェック:頭部だけでなく全身の健康状態を評価し、休息や治療を適切に行う。
選手・指導者・保護者の教育:脳しんとうや頭部外傷のリスク、対処法、早期発見の重要性を学ぶ機会の充実[1,3].
これらの取り組みは「CTEの発症をゼロにできる」わけではありませんが、少なくとも頭部外傷がもたらすリスクを減らすのに有効と期待されています[1,2]。
7. 予防策と今後の展望
7-1. スポーツ界で進む安全対策
各種スポーツ団体では、コンタクトプレーの頻度や強度を下げるルール改正が行われるなど、安全策が次々と打ち出されています。特にジュニア世代を対象にしたヘディングの制限や、試合中に脳しんとうが疑われた場合の「即時交代」ルールなどは、頭部外傷リスクを減らす重要な試みです[3,5]。
また、アメリカの大学スポーツでは試合だけでなく練習中の衝撃回数をモニタリングする試みも行われています。ヘルメットにセンサーを装着し、頭部にかかる衝撃の回数や強度をデータ化することで、選手の負担を「数値」として把握しやすくなります[2,4]。
7-2. CTE研究の課題と未来
CTEは発症メカニズムも病態生理学的特徴もまだ解明が十分とは言い難い病気です。以下のような研究課題があります[1,7,9]。
臨床診断技術の開発:生前診断を可能にする画像検査やバイオマーカーの確立。
発症リスクの個人差解明:遺伝的要因や脳の個体差、ライフスタイル要因など、誰がどの程度リスクを負うのかを特定する研究。
軽度の外傷蓄積メカニズム:一度の大きな衝撃だけでなく、小さな衝撃の反復がどのように脳に影響を及ぼすのか。
長期的縦断研究:大規模かつ長期的に選手を追跡し、具体的にどれほどの割合でCTEが発症し得るのかを調べる。
現在も様々な大学・研究機関が連携し、CTEの解明と予防策の開発に取り組んでいます。脳しんとう後の回復促進を目的としたリハビリテーションプログラムや、ヘルメットのさらなる改良など、技術面でも研究が進行中です[2,5]。
8. おわりに
コンタクトスポーツは私たちに大きな感動を与えてくれますが、一方で頭部外傷のリスクが常に付きまとうことも事実です。繰り返しの軽度外傷が長い年月をかけて脳に深刻なダメージを及ぼす可能性があるとすれば、プレーヤーや指導者、そしてファンにとっても無視できない問題となるでしょう。
しかし、スポーツがもたらす社会的・健康的メリットは非常に大きく、その魅力を捨て去ることは現実的でも望ましくもありません。重要なのは「正しい知識」と「適切なリスクマネジメント」を持ち、選手一人ひとりが安心してプレーできる環境を整えることです。医学的・科学的研究のさらなる進展や、ルールや用具の改良、教育現場での啓発を通じて、CTEのリスクを最小限に抑えつつスポーツを楽しむ社会を実現することが目標です[1-3,8-9]。
今後もCTEの研究は加速していくと考えられます。将来的には生前診断や早期治療の開発が期待され、脳しんとうの初期段階から予防的措置を講じることで、選手生命のみならず人生を通じた心身の健康を守ることができるでしょう。私たち一人ひとりがCTEについて正しい理解を持ち、周囲の人々と共有し合うことが、スポーツ文化の持続的な発展と安全性向上に繋がるのではないでしょうか。
引用文献
Maroon, J., et al. “Chronic Traumatic Encephalopathy in Contact Sports: A Systematic Review of All Reported Pathological Cases.” PLoS ONE, 2015.
Zuckerman, S., et al. “Chronic Traumatic Encephalopathy and Neurodegeneration in Contact Sports and American Football.” Journal of Alzheimer’s Disease : JAD, 2018.
Concannon, Leah G., et al. “Counseling Athletes on the Risk of Chronic Traumatic Encephalopathy.” Sports Health, 2014.
Kelly, J., et al. “Sports Concussion and Chronic Traumatic Encephalopathy: Finding a Path Forward.” Annals of Neurology, 2022.
Mez, Jesse B., et al. “Duration of American Football Play and Chronic Traumatic Encephalopathy.” Annals of Neurology, 2019.
Bieniek, Kevin F., et al. “Chronic Traumatic Encephalopathy Pathology in a Neurodegenerative Disorders Brain Bank.” Acta Neuropathologica, 2015.
Taghdiri, F., et al. “Unusual Combinations of Neurodegenerative Pathologies with Chronic Traumatic Encephalopathy (CTE) Complicates Clinical Prediction of CTE.” European Journal of Neurology, 2024.
Costanza, A., et al. “Severe Suicidality in Athletes with Chronic Traumatic Encephalopathy: A Case Series and Overview on Putative Ethiopathogenetic Mechanisms.” International Journal of Environmental Research and Public Health, 2021.
Mez, Jesse B., et al. “Chronic Traumatic Encephalopathy: Where Are We and Where Are We Going?” Current Neurology and Neuroscience Reports, 2013.
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