番外編: Plum(PLEVAIL)歌詞解釈
この記事はPLEVAILというアイドルのPlumという曲の歌詞を解釈する番外編です。
特に「スターライトという曲の後にPlumが発表されることで生じる意味」を考えるためにPlumの解釈を行います。
なお、記事中に出てくる引用はすべてPlumの歌詞です。
スターライトはリリースのタイミング、曲調、ライブでの扱われ方などを見るにPLEVAILというチャプターの1つのクライマックスだと思います。作詞がリーダーあをいさんであることもそれに拍車をかけているように見えます。
私はスターライトは、それこそメンバーやプリベイラーにとって、PLEVAILというチャプターは9/29で終わってしまうが、だからこそ明るい未来を見据えようという曲だと感じています。そういう意味ではスターライトの後にリリースは無いかもなあと思っていたところもありました。
実際、Plumは「THE 平山節」と銘打ってリリースされています。スターライトのジャケットに映っているのはおそらくガーベラの花で、Plumはスモモでジャケットは実なので、スターライトとPlumに綿密なつながりはないかもしれません。
とはいえ、同じPLEVAILというアーティストから発表される以上、全くの無関係と捉えるのも無理があります。Plumに込められたものがPLEVAILと矛盾するなら、別名義で発表することも理論上は可能だからです(スケジュールなどの現実問題はいったん置くとして)
このこととスターライトが醸し出すクライマックスを踏まえると、Plumのリリースのタイミングには何らかの意味を見出せそうです。前置きが長くなりましたが、そろそろ始めます。今回は歌詞を頭から解釈していきます。
おお始まりから不穏ですね…満たされない、モヤモヤしていると確かに眠れなさそうです。その背景や状況が気になります。
状況の描写を間接的な比喩で示しています。ノイズは何かを妨害する音ですよね。でも音もなく降り積もっているそうです。となると、ノイズは外では鳴ってないと考えられそうです。
また、60BPMだとわかるほどある程度規則正しい音のようですね。体の内側で規則正しく1分に60回鳴る音、これは心臓の音ですかね?心臓の音は普段は意識しませんが、たとえば緊張した時とかは意識しちゃって余計緊張してしまいますね。正確な動作のノイズとは言えそうです。
ただし、緊張はポジティブな面もあります。心拍数が上がるのは戦いに備えるためですし、覚悟を持って取り組んでいるからこそ緊張してしまうこともあるかと思います。ノー勉の受験なんて緊張しませんからね。
ところで、心拍数60回/分というのはかなり遅いです。まったく緊張しているとは言えませんね。つまり思い入れがないということなのですが、これは次の歌詞でも示されます。
思い入れがあるものはたくさん語れるものです。少なくとも他人の言葉をコピペして語ろうとは思わないはずです。また、たくさん語れるはずなら改行コマンドを使う前に文章がデバイスの横幅に達しそうです。
何に対しての思い入れなのかが示されます。あの日誓ったはずの夢と、現状の思い入れにギャップ(穴)があるようです。
傍観は「部外者として見る」という意味があります。「あの日」の自分からすれば、現状の自分はあまり関わりたくない人なのかもしれません。
シュプレヒコールはデモなどで「〜するぞー!」のようなスローガン、決意を表明することのようです。愛はHeart(心=心臓)から溢れ出るものですね。白がもし純白を意味するなら、ピュアな気持ちということでしょうか。
「あの日」誓ったはずのピュアな気持ちが、現状の自分には受け継がれていない(取り零されている)。だからシュプレヒコールは哀しげにしか聞こえない。だから、傍観されているのだと考えられます。このことはサビで展開されるように思えます
出てきましたね。誓い(シュプレヒコール)をしても、取り零され、忘れられています。もしかしたらループしていてBAD NIGHTは乗り越えられない可能性があるかもしれません。
リテイク=誓いの録り直しということでしょうか。夢をふたたび掴み取る(re-take)とも読めそうです。
先程、白い愛=ピュアな気持ちとしました。埃は汚れなのでピュアの逆ということ。ピュアな気持ちはすぐに汚れていしまうようです。その一方で、埃ならばふき取ることもできそうです。
痛いの痛いの飛んでいけは怪我した後に言うものなので奇妙な時系列ですね。英語と織り交ぜて変な日本語にすることで、傷つくことから逃げることのおかしさを示唆していると考えられます。次の歌詞を見てみましょう。
めっちゃ「選択のパラドックス」が出てますね。「選択のパラドックス」とは「選択肢が多いとかえって選択できない逆説」です。
「選択のパラドックス」についてはジャムの実験が有名で、スーパーで売っているジャムの種類はやたら数揃えるよりも3種類くらいの方が消費者が迷わないので売り上げが良くなったそうです。
ただし、選択しないことを肯定する思想もあります。政治思想家のC.シュミットが批判した「ロマン派的主体」はまさにそれです。現状とは異なる世界(ロマン)を頭の中で描き出すことで、現状の世界を批判しそこで選択を下すことを避けようとします。
選択とは少なからず制限を設けることです。「ロマン派的主体」は「何でも選択できる」という全能感を保持するために「選択しない」ことを行います。これによって自我を有限性から解放しようとしているのです。ただしこれは皮肉な結果を招きます。
「ロマン派的主体」は非決定が本質です。当然ですが、何者にもなれません。だからアノニマスです。できることはせいぜい匿名でweb上で、誰かに後ろからごちゃごちゃ言うくらいのものです。
まるで蜘蛛の巣に囚われジタバタするくらいしかできないようかのようですね。webは蜘蛛の巣でありインターネットでもあります。非決定とは「私はまだ本気を出していない」とも取れそうですね。
鏡は自らを映し出しますが、そこには生気のない(青白い)知らん人(エトランゼ)が映っています。非決定は何もしないので、究極的には生気を失ってしまうようです。
「また」とありますね。上記のようなこと(非決定を解放だとはき違えること)を何回もやってしまっているとも、そんな人が何人もいるとも取れます。
乱反射は夢が色んな方向に行ってしまっており、向き合えていないということでしょうか。そういう蛹(殻を破れてない=選択しない人)はいっぱいいるということでしょうか。
テレプシコーラはバレリーナのことですね。少なからず何かを表現する人のことですが、飛ぶ表現をしたとしても、舞台上で用意される羽は作りものなので実際には飛ぶことはできません。
さらに、テレプシコーラは森鴎外の「舞姫」を彷彿とさせますね。「舞姫」はロマン派小説に分類されます。主人公は舞姫のためには選択をせずに国に帰ります。このあたり、白い愛(純愛)が叶わず、絶望する(堕ちていく)エリスのことが念頭にあるのかもしれません。
くだらない日々とは、まだ本気じゃない、選択していないということでしょうか。確かにそりゃ自業自得ですね。また、本気じゃない限り全能感はあるので。
つまり、見返りがないくらいなら挑戦しない方が全能感(まだ本気じゃないから大丈夫感)をキープできるから得だ…となっているのかもしれません。
「本気じゃないから全能感が云々」が立派な御託だってことでしょうね。そしてそれを並べているうちに、生命力を失って青白くなってしまうのでしょう。
自我の解放は都会人的問題でもあります。選択肢が多いのは都会の特徴だからです。「ロマン派的主体」にとっては選択しないというスタートがそのままゴールになります。
しかし、それは放っておくと時間だけが過ぎていきます。行動を起こそうとしても、色んなものに眩惑されているうちは「選択のパラドックス」に引っかかって夢をかなえる道のりは遠そうです。
余談ですが、C.シュミットは地方出身ですし、先日放送された「天空の城ラピュタ」のシータは「山育ちで目は良いの!」って言ってしましたね。
少し変えた繰り返しです。「私はまだ本気じゃない」のためには非決定が重要です。だから冒頭で言及された夢のことは思い出しても無視するのです。夢に正面から向かう(乱反射しない)ということは、選択をするということですから。そのために言い訳はしていくということです。
賽はフェイクの賭けです。何回も投げられる遊びのギャンブルですね。一方、川へ身を投じることは自殺(入水)にもなり得る危険な賭けです。おそらく語り手は夢を追いかけるしんどさは薄々感づいているのでしょう。
それは分かっているけど選択できないから理屈(まだ本気じゃない)と行動(選択しない)が矛盾して開き直ることしかできないということでしょうか。理論を作っては行動で壊してしまっているようです。
夢に向かうことをある種の戦いだとするとそりゃ要領とは相性悪いでしょう。戦争は基本的に非経済的です。だからナショナリズム(熱情)が必要で、それによって国民を動員したり追加徴税したりできるのです。
最初から再生するということですね。夢を再生するとも掛かっているかもしれません。
After Carnivalは祭りの後、、、Mr.After Carnival=後の祭りマンで、昔のことをずっと悔やんでいる人のことでしょうか。
気になるのは唐突の命令形です。これまでは内省的な歌詞でした。一種の自己反省のような。登場人物は「あの日」の自分と、60BPMの自分(語り手)でした。しかし、語り手の様子にヤキモキして、いいからそこから代われと言う人が出てきましたね。
この「命令者」は内省する自分をさらに内省する自分とも言えるし、普通に語り手を外から見た他人とも取れそうです。ここから逆転劇が始まるのでしょうか。
しかしながら、その命令する人はbackseat driverではないと言えるのでしょうか?批判という選択しない選択で、「ロマン派的主体」のような全能感に浸るアノニマスだとしたら?これはラストの冒頭の歌詞の繰り返しで示唆されます。
つまり、この「命令者」も夢を誓った自分とのギャップに苦しむ、同じ穴の狢、ミイラになったミイラ取りなのではないでしょうか
ここまでPlumを解釈してきましたが、スターライトとは対極に聞こえなくもないです。なぜこのタイミングのリリースなのか?ヒントはジャケットに示されているように思えます。
ジャケットのPlumは花ではないので花言葉は参照しません。しかしPlumはスラングで「誰もが羨むような成功、実績」を示します。ジャケットではこれを手で掴んでいます。つまり「ロマン派的主体」のように心で思ったり頭で考えたりしてるんじゃない!身体で行け!ということです。
頭の中にいる限り、上で見たようなループからは逃れられなさそうです。頭は常に無限の選択肢を考えることができるからです。
だから頭で考えすぎることを中断して、「とりあえず」の「この仕方で」踏み出すのが大事となります。思考と違って身体は有限性ゆえにとりあえず踏み出すことを後押ししてくれます。
例えば、無限量の食べ物を思考することはできますが、実際のところは胃袋の大きさが有限です。だから食べ放題でも「ここらでやめておくか」という選択が可能になります。
その有限さは決して制限ではなく、むしろ食べ放題で満足度(目的)を得るためには必要です。食べすぎは苦しいので。
ここから分かることは、夢を追うには有限性の自覚が必要であり、それはまったくネガティブなことではないということです。
むしろ、有限性(身体)と無限(思考)を綜合する主体こそ、夢を追うのに相応しいと思います。思考を暴走させればロマン派的主体になりかねないからです。
冒頭で述べたようにPLEVAILの楽曲としての物語はスターライトでクライマックスを迎えていると思います。Plumがその後に発表される意味は何か?
それは、行ってはいけない道を通行禁止にすることです。スターライトは光であり、理性(思考)も光である。信仰ではなく理性を主体にした啓蒙はEnlightenmentが原語です。
しかし、スターライトはただ夢見がちな人ということでもありません。スターライトには走り出す、掴む、という身体的な動作がちゃんと含まれているからです。
Plumはスターライトのライトが嵌ってはいけない落とし穴を通行禁止にしてくれている曲だと考えることができます。実際のところスターライトは身体的な動作があるのでkeep going!ということになります。
ただし、このことは歌詞以外で伝えた方が良いでしょう。身体で理解することが大事だからです。だからジャケットは成功を掴む、ということを視覚的に(つまり身体を通して)理解することができるようにされています。
Plumのジャケットは平山さんの手と聞いたのですが、そういう意味では平山さん自身が掴んだ夢(アイドル運営、音楽で飯を食う)の中にメンバーというPlumの種があると言えるかもしれません。
Plumの果肉(歌詞の内容)はスターライトで夢に突き進むことを示したメンバーたちへの養分である、くらいの妄想は許されるのかなーと思います。PLEVAILとPlumの切り離しが示唆されているとはいえです。
身体身体言って自分は言葉使っとるやんけ、というツッコミは正当です。なので私もスターライトとPlum受けて夢を掴めるようにちゃんとかけ出します。
Plum解釈、以上となります。読んでいただきありがとうございました!