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鏡(短編小説)(ショートショート)

この人は誰なのだろう?
鏡なんて久しぶりに見た。目の前に映っているのは誰?
「こんなひどい顔してたっけ?」
そんなことを呟いてみる。

「うぎゃー!」
あ、そうだ離乳食作らなきゃ。

「ちょっと待っててね」
自分でも愕然とするほどの弱々しい声を喧騒の中に放ってみる。騒音の発生源は止まることを知らず「オギャー!」と言い続ける。
正直もう飽きてしまった。飽きてしまい私は苛立ちを持ってしまった。
「母親失格だよね」
とまた呟いてみる。

出来上がった離乳食。市販のものを電子レンジで温めただけ。
「母親失格だよね」
そう呟く。

私が目の前に座ると静かになる。
一口スプーンに掬って口に持っていく。
口に含んだ瞬間吐き出しまた泣きそうになる。

「ごめんね、ごめんね・・・いい加減にしてよ・・・ごめんね」
これが今の私の口癖になっている。



「そんな状態なの?」
「うん」
良い天気の日私には眩しすぎる太陽が輝いている。目の前にはいつも太陽のような存在の陽子がいる。

「茉央、旦那さんは?」
「うん、仕事忙しいから」
「でも帰ってくるんでしょ?」
「うん」
「帰ってきた後は?茉央は楽できる?」
「子どもと遊んでくれてるよ」
「それだけ?」
「え?それだけ?」
「例えばお風呂入れてくれたりとか、片付けしてくれたりとか、そういう子どもに関わること」
「う〜んどうだろう?」
「ちょっと!それは良くないと思うよ」
「でも忙しい人だから」
「・・・」
陽子は私を睨みつける。いや、多分私ではなくうちの旦那のことを睨みつけてる。

「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫だよ」
「・・・」
また私を睨みつける。多分これは私を睨みつけている。

「わかった。お散歩しよ」
そう言って私たちは広い公園を散歩した。子どもも気持ちいいのか機嫌がよくベビーカーの中でキョロキョロ周りを窺っている。
「綾ちゃんかわいいねぇ」
陽子はそう言った。
「・・・うん、子ども可愛いよ」
多分、うまく演技できたと思う。

「・・・将来が楽しみだねぇ、これから立って歩くようになって、喋れるようになって、女の子同士だからきっと女子トークとかするんだろうなぁ」
「そんな先のことなんてわからないよ。陽子も子ども出来たらわかるよ」

陽子は少し間を空けた。

「あ〜私は子ども求めてないんだよねぇ」
「え、そうなの?子ども好きじゃん」
「好きだけど、私には子育てをしている将来なんてないと思う。想像もできないし」
「そんなの私だってそうだったよ」
「そう?いやいや、無理無理」
「やってもないのに・・・」
「うん、そうだね、茉央は凄いよ」

私は何も凄くない。

「私は何も凄くない、今だってこの子のこと可愛いと思えない。この子が泣くと私苛立ってしまって声を荒げたくなる。この子が離乳食を吐き出すと全部投げ捨ててしまいたくなる。母親失格だ。いつも『ごめん、いい加減にしてよ、ごめんね』が口癖になってる。そんな母親、全く凄くない」
私はつい感情的になって大きな声を上げた。ベビーカーの中から大きな声が聞こえる。
「うぎゃー!」
「あぁごめんね、ごめんね、お母さん大きな声だったね」

抱っこをして手が塞がった。空のベビーカーは陽子に押してもらった。
気まずい雰囲気のまま歩き続けた。

「見て、池、綺麗」
「本当だ」
池の澄んだ水が青々とした木々の葉を写している。覗き込むと私たちの姿も見える。

「この間、鏡を見たの。ひっどい顔だった。誰?この人?って思った」
「うん」
「久しぶりだったの、もう身だしなみなんて考えられないぐらいだから」
「うん」
「忙しいんだ、この子夜泣きも酷くてよく寝られない日が続いてて」
「うん」
「だから全部捨ててしまいって思って」
「うん」
「私、母親失格だなって」
「うん」
「・・・」
「・・・」

陽子が口を開いた。

「茉央、不用意に『凄い』なんて言ってごめん」
「こっちこそごめん」
「でもさ、茉央さっき綾ちゃんが泣いちゃった時真っ先に抱っこして泣きやまして、それにどれだけ全てを投げ出そうとしても今こうして元気な綾ちゃんと一緒にここにいる。投げ出してないだね、とても偉いよ」

私は何か張り詰めていたものが緩んでいくのを感じた。その瞬間目からどんどんと涙が溢れてきて私は子どものように泣いた。

しばらく泣いていてその間陽子は私のことを待っていてくれた。
「落ち着いた?綾ちゃん困ってるよ」
「あ、うん、あ、綾ごめんね」
「やっと綾ちゃんの名前呼んだ」
「え?」
「ずっと『子ども』とか『この子』って言ってた」

私は知らず知らずのうちに綾のことを他にもいる1人の子どもと見ていた。
「多分、そうすることによって現実逃避してた」
「そう」
「うん」

陽子が深呼吸する音が聞こえる。

「私ね、子ども産めないんだ」
「え?」
「ごめん、ずっと黙ってたけど私、子宮がないんだよ生まれつき。なんて言ったけ?ロキタンスキー症候群?だったかな」
「え?え?」
「ごめんね、なんか手術して作ることができるらしんだけど、なんか怖いし。そう思ってたらなんかもういいかなって」
「そんなことって」
「だから私には子どもを持つって選択肢はないわけ。だから茉央のこと羨ましいと思う。だけどそれを茉央に強要してはいけない。『私は子ども産めないんだから綾ちゃんがいるだけで幸せだろ』って。でもね知っていてほしい綾ちゃんは茉央のもとに来てくれたんだよ。幸せなことだよ」

私は何も言えなかった。

「茉央の胸の内を明かしてくれてありがとう。知ったからには私も協力できることはしたい。多分何もできないけど。こうやって話を聞くことぐらいはできるから」

「うん、ありがとう。嬉しい」

「私にとっても綾ちゃんは大切な存在だよ」

「もしかして私がしんどいって知ってた?」
「まぁなんとなく察してはいた」
「そうか」

もしかしたら陽子の事は綾が生まれなければ一生知る事はなかったかもしれない。

「しかし、まずは父親だな。父親にはなんとか子育てに参加してもらわないと」
「え?」
陽子はもう気持ちを切り替えていた。
「『え?』じゃないよ、茉央がこんなにしんどいのは旦那が子育てに参加していないからでしょ?それは駄目。参加させないと」
「イクメンってやつになってもらわないといけないね」
私も洋子を真似て笑顔で同じようなトーンで応答してみた。

「何言ってんの?イクメンってなに?子育てをするのは当たり前でしょ?男が子育てをすれば『イクメン』って。そんなダサい名前もらえるのはおかしいよ」

陽子は考え方が独特だ。いや、私が間違っているかもしれない。

「確かに。『イクメン』ってダサいね」
「でしょ〜」
「まず、どうしたらいい?」
「そうだね・・・

綾が今にも眠りそうな表情をしている。陽子は真剣に育児に参加させる方法を考えてくれている。私は水面を覗き込んでみた。そこには私がいた。

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