教師には何も期待しない。だからせめて、放っておいてほしかった。
1年以上前の2022年12月。場面緘黙症だった私にとって見過ごせないニュースがふたつあった。
ひとつは、以前の投稿でも触れたが、静岡県裾野市の保育園で、保育士が園児を虐待した暴行容疑で逮捕されたこと。私も、約35年前に保育士から心理的虐待を受け、無理やり喋らされた経験があるので、他人事ではなかった。
もう一つが、熊本市教育委員会が、2019年に自殺した男子中学生の小6のときの担任教師を懲戒免職にしたことだ。その教師は、複数の児童に体罰や暴言を繰り返したことが「不適切な指導」だと市教委から認定された。緘黙の児童に対しても、酷いことをした。第三者委員会の調査報告書は、ネット上でも公表されている。
発声指導?
大きなお世話だ。
その児童が味わった悔しさや、やるせなさを想わずにはいられない。不安や恐怖も感じたかもしれない。
無知な教師ごときに、緘黙が固定化した子どもの最も繊細で敏感なテリトリーに立ち入ってほしくない。
私自身は、保育士からは喋るよう強要されたが、就学以降、教師からはそのような「指導」をされたことはない(代わりに、就学時の「支援」もなかったことは以前も書いた。)。
だが、無神経・無自覚に子どもを傷つける教師、自分の間違いを認めない教師、無駄に熱い教師など、いろいろな教師がいた。私が家族以外で唯一喋っていたのが、‟先生“と呼ばれる人だったのだが、‟先生”には、期待も信用もしていなかった。今思えば、保育士からの心理的虐待で無理やり喋らされた恐怖体験が、心の奥底に巣食って警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
“先生”は、正しくないと。
公立小中学校という闇鍋
私はずっと、学区で決められた公立の小・中学校に通った。
そこは、闇鍋だ。
たまたま同じ年度に生まれ、たまたま同じ地域に住んでいた子どもが、義務教育の名のもと強制的に集められる。
入学にあたり何の選抜もされないから、私のような緘黙児も、今で言う発達障害児も、金持ちの家の子も、貧乏人の子も、勉強ができる子も、できない子もいた。私が喋らないことを全く責めずに友達になってくれた子もいたし、殺したくなるくらい憎い奴もいた。いろいろなタイプの子どもが、一つの教室に押し込まれ、学年が上がるにつれて、その「個性」が顕著になっていった。
子どもだけではない。その闇鍋には当然、教師も入る。どんな教師をつかまされるのかは、4月の始業式まで分からない。
私が小5から卒業するまでの2年間は、同じ担任教師だった。年齢は、当時の親世代で30代後半くらいの女だった。場面緘黙症の私に対して、声を出させるような「指導」があったわけではないが、ヒステリックな女だった。
例えば、その学校では毎年秋に行われる音楽会での合奏に向けて、各自がピアニカやリコーダーその他の楽器の練習を数か月かけて行うのだが、高学年にもなると、ピアノやエレクトーンを習っている児童の方が、音楽に疎かったその担任より知識も技術もあった。それなのに、偉そうに教壇で指導するものだから、習い事をしている児童から「先生、間違ってます」と指摘されると、「うるさい!」などと声を荒げていた。子どもの目から見ても、おかしな教師だった。
いつしか、男子児童は、その女教師を陰で呼び捨てにするようになった。私も、家で親と学校の話をするとき、その女のことを呼び捨てにしていた。
正論はいらない
本当は、学校で友達と話をしたいのに、それができないというのは、とてもつらいことだった。学年が上がるにつれて、そのつらさは増していった。特に、「場面緘黙」という言葉もない時代には、喋れない理由が自分でも分からなかったし、説明もできなかった。ただの変な子どもだった。周りから変だと思われていると意識することもつらかった。
小学生の子ども一人の力では、そのつらい状況を変えることができず、かといって、私は大人に助けを求めることもしなかった。
緘黙を脱しないまま学年が上がり、小5くらいになると、頭の中ではっきりと言語化しないまでも、教師に対してはこんな気持ちになった。
もうお前らは何もしなくていい。ほっといてくれと。
喋れないことが普通とは違うことは、自分が一番よく分かっている。嫌だったのは、周囲から喋らないことを指摘されることだった。恐れたのは、大人から「喋らないと自分が困るよ」などと、偉そうに正論を吐かれることだった。
そんな正論は、分かっている。
分かっていたから、私は高校から緘黙を脱した。誰の力も借りずに自力で。
はりぼての「多様性」
時がたち、時代も変わり、いくつもの言葉が新たに生まれた。
場面緘黙症だけではない。不登校、発達障害、それに、引きこもり。
引きこもっている人への正論は、暴論だ。「親が死んだ後どうするんだ」などという正論は、他人に言われるまでもなく、本人が一番分かっているはずだ。分かっていても、変えられない。変えられないから苦しい。その苦しみは、関係ない他人には理解できない。そこに、分かったフリが得意な福祉ヅラをした奴がすり寄って来ると、苛立ちしか生まないだろう。
だから、言いたい。
ほっといてやれと。その代わり、責任は本人が自らとる。
「多様性」という流行り言葉が、どれだけ無味乾燥か。ただのはりぼてでしかない。
「人権擁護」「差別は許さない」などと声高に主張する人ほど、自分の意にそぐわない人に対して攻撃的になり、無自覚に口汚い。それによって、目に映らないマイノリティーを貶めていることに気づきもしないで。
正論を吐く人は、自分は正しいことをしていると思っているが、それは、勘違いだ。
言われる相手からすると、間違っている。大きなお世話でしかない。
正論は、間違いなのだ。