[連載]ラット -嚆矢-2
京崎翔太郎は黒のロードバイクのハンドルを握りしめ、力強くペダルを踏んでいた。頬を撫でる春先の風が妙に心地よい。陽光がまぶしい、良い朝だと心の中で呟く。
高速の高架下を程よく進むと、ビル群の中に白い建物を発見し京崎はブレーキをかける。裏の駐輪所に自転車を止め、そのまま裏口から仕事場へと向かう。
仙港市警察署。それが京崎の仕事場であった。
京崎はある部屋の前で立ち止まる。捜査一課、凶悪犯罪や殺人事件を取り扱い、街の平和と秩序を守る。
しかし、仙港市は少し事情が違う。
「おはようござ」
「遠坂ぁぁぁ!」
部署から怒号が噴き出た。ひょい、と首だけ中を見ると男二人が中で言い争っていた。いや、正しくは男が怒られていた、という方が正しい。
一人はパソコンの前でイヤホンを繋げながら座っていた。短く刈り上げた赤茶の髪、堀の深い顔は豪傑といった雰囲気を漂わせる。仕事中だというのに臙脂色のネクタイを緩ませている。
もう一人はキリっとした雰囲気だ。焦げ茶の髪をかき上げ、チャコールグレーのスーツを身に纏っている。少し疲れがたまっているように見えるその顔は、年齢より苦労をしているのだろうな、と思わせる。
京崎は室内の二人へ問いかける。
「なにしてるんですか?遠坂さん、栄さん」
怒られていた遠坂という男は京崎に手を伸ばした。
「聞いてくれよ京崎。休憩時間中にゲームをしてただけなのに、ゲームすんなって栄が怒ってんだぜ?休憩時間に、おかしいよなぁ?」
「当たり前です!大体何度休憩を取るつもりですか!?さっきもタバコを吸いに行ってるところを見ましたし、頼んでいた書類仕事がほとんど進んでいないじゃないですか!」
栄と呼ばれた男は遠坂に詰め寄りながら詰問する。
「仕事を放っておきながら、なにをしてるんですか!」
「だってよぉ」
机の上に積まれた書類を指さしながら、遠坂は不満を漏らす。
「捜査一課として働いたのは2か月も前だぜ?こうも書類ばかりじゃあ、どうもモチベがなぁ」
K県仙港市、といえば住宅街などが密集するベッドタウンとして有名である。
人口が15万人を超える都市部で、海外企業の支社や服飾系ブランドの本店、大学機関も設置されているため人の流通は多い。昼間ではおよそ30万人は超えるといわれ、早朝は毎日人でごった返すほどだ。
仙港市の最大の特徴は、何と言っても犯罪発生率の低さだろう。近隣都市よりも2割近い低さを誇っている。年々減少傾向にあり、それに伴って市が全面的にそれを売りにしている。
しかし、一つだけそれで非難される場所がある。警察だ。
安くない税金が払われているにも関わらず、捜査や事件が一向に起きないために暇を持て余している。交通課の方が忙しい、なんて噂が流れるほどに捜査一課は仕事がない。だから厄介ごとや雑務を押し付けられている。
京崎はため息を吐く。
「遠坂先輩、いくら何でも職場でゲームはやりすぎですよ。仕事してください、仕事」
「けどよぉ」
元々仕事に対するモチベーションは低かったというのに、それに輪をかけてやる気が感じられない。給料分の仕事はしてほしいものだ。
とにかく、と栄部長は咳払いをしながら応える。
「とにかく私たちは、いつ如何なることがあってもいいように、今を全力で活かすだけです。ですので、任せられた仕事は全うしてください」
「そうですね、栄部長の言う通りです」
静かな声が背後から現れた。振り返ると美しい男がいた。
端正な顔立ちに切れ長の目、その瞳は鎮まった緑に染まっている。鋭い視線に似合わず穏やかな雰囲気が婦警に人気らしい。噂によれば、広報課にも何度か声がかかっているとか。
「お疲れまです、氷野さん」
「栄君、ただいま休憩から戻りました」
氷野慧、それが彼の名前だった。そして、一課一番の切れ者でもある。
これまでも度々事件を颯爽と解決しているらしい。昇進の話も来ているらしいのだが、悉く断っているという噂だ。それだけすごい人なら、もっと本部に移動なり警視庁で活躍すればいいのに、なんでしないのだろう。
栄は少し困った顔で聞き返す。
「氷野、勤勉なのはいいことだけど、君は働き過ぎだ。もう少しゆとりをもってくれないと、私が怒られてしまう」
「お言葉ですが、栄君。私はこの街が好きなんだ。私の時間は街のために使いたいのでね」
はぁ、と息が漏れてしまう。さすがは氷野さんだ。全てを差し置いて街のために働きたいなんて、なんて素晴らしい考え方なんだ。僕もそれぐらい頑張らないと!
プルルルル、プルルルル。
一課の電話が鳴る。京崎はすかさず受話器を取る。
「はい、こちら仙港市捜査一課。……、はい、わかりました……、すぐに向かいます」
受話器を置き、まっすぐに向き直る。
部屋の雰囲気がきつくなる。遠坂も眉間に皺を寄せている。
「市内で死体遺棄事件発生。殺しです」
今日の仙港市は平穏ではなくなった。
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