打ちひしがれた期待感
それから1週間後の道場指導の日、僕は朝から期待に胸を膨らませて、夕方になると早めに道場に向かった。到着後すぐに道着に着替え、受付用のテーブルを引っ張り出した、準備を念入りに済ませ道場生達を待っていた。少しすると、先週来てくれた生徒たちが数人やって来た。小学生くらいの男女が数人と、中学生くらいの女の子、それに、40歳くらいの女性である。彼女は近くにある大手製薬会社の科学者だと言っていた。豊満で、笑顔の素敵な女性だった。フィンランド出身で名前はアイラといった。そろそろ始まりの時間になったが、前回よりも人数が減り、20人に満たないくらいだった。それでもその日は全く不安を感じなかった。
ところが次の週になり道場へ行ってみると、待てど暮らせど、誰一人として生徒はやって来なかった。結局、その日は僕一人で型の練習などをして終わってしまった。こんなむなしい思いをするとは夢にも思わなかった。中ホールのそんなに広くないスペースが、その日はやけにだだっ広く感じられた。結局その日は収入0で、時間貸しなので赤字になってしまった。それよりも、誰も来ないという現実に心が打ちひしがれ、不安と焦りで頭の中が一杯なってしまった。結局誰も来なかった道場を後にしながら、僕は予想外の不安にかられ、近くのスーパーマーケットでプジョーを停め、ジョージにこのことを伝えるために電話をした。
「ハロー、ジョージ」
「ハロー、ナオト。今日はどうだった?」
「実は今日、1人も道場生がやって来なかったんだよ。仕方ないから1人で
型の練習をして暇をつぶしていたんだ」
「そうか、それは残念だったね」
「理由は何だと思う?」
「それは多分、夏休みに入ったからじゃないかな」
「夏休みで道場生が来なくなるのはどうして?」
「イギリスでは、たいていの人達は夏休みを3週間は取って、ゆっくりする
のが普通なんだよ。多くの人は旅行へ行ったりするからね」
そう言われて僕は愕然とした。なぜなら、所持金が少し心許なかったからだ。これから3週間もの間、ほとんど収入が得られなかったらどうしようとさらに不安になってしまった。家具や車で思った以上に費用が嵩んでしまっていたからだ。道場経営で少しでも稼がなくてはという不安とプレッシャーが募ってきた。来週には妻の由美がいよいよ日本からやって来て、二人で一緒にイギリス生活を享受しようと思っていたのに。
翌日の朝、僕は8時くらいに目覚めてから大急ぎで朝食を取り、ジョージに今から行ってもいいかと電話で確認してからジョージ邸まで車を走らせた。ジョージから安心できる一言をもらうために。慣れないイギリスで、本当は順調に収入を得られると思っていた矢先に起きた不測事態であり、わだかまりが2人の間に若干生じたとはいえ、ジョージを頼るしかなかった。ジョージ邸に着いてベルを鳴らすと、いつものように笑顔で出迎えてくれた。僕はテーブル席に腰かけると、
「紅茶はどうだい?」と、いつものように笑顔で聞かれて、
「お願いするよ」と僕は答えた。ジョージはお茶の準備をしながら、
「電話でも話したように、しばらくは生徒の数は減ると思うよ。夏休みだか
らね」と言った。
「じゃあ、この前のオープニングセレモニーの時はその直前だったからまだ
人がたくさん来られたのかい?」僕は不安に駆られながらジョージに尋ねた。
「まあ、そういうことになるかなぁ。でも、僕の道場もこの時期は少なくな
るんだよ」とジョージは頭をかきながら答えた。とはいえ、ジョージの道場は全部で3つあり、それぞれ3つもクラスを有していて、生徒数が3週間くらいの間多少減ったとしても、大して打撃にはならないのかもしれない。僕の場合、道場は1つでクラスも1つだけなのだから厳しい。取り敢えずその日はジョージとお茶を飲みながら雑談して1時間くらい過ごし、心を少しでも落ち着かせてから帰ることにした。
そしてその次の週、同じようにサンドイッチ道場で、僕は空手着に着替えて生徒が来るのを待っていた。すると、7歳くらいの女の子とその母親がやって来た。大手製薬会社に勤めるアイラだった。彼女も娘と一緒に入門したのだった。娘の名前はケイトリンといった。まだ小さいが、スラっとした金髪の青い目をした綺麗な女の子だった。
「ハロー、夏休みはどこかに行かないの?」と僕はアイラに尋ねた。
「先週、フィンランドに帰郷して、もう帰ってきたの。これからしばらくは
子供の世話で毎日大変よ!」
夏休みの親子事情は日本と変わらないんだなぁ、と僕は思った。それにしても日本と違って、約3週間も休みを取れるというのは羨ましい。これはキリスト教も関係しているらしい。働き過ぎてはならない、という教義に起因していた。
結局この日はこの親子と、他に2人の男子小学生の4人だけだった。実際、この人数では赤字なのだが、前回は誰も来なかったことを回想すると、僕にとってはとても嬉しくありがたいことだったのだ。何にも増して生徒が来てくれたことは嬉しかった。
翌日、また僕はジョージに会いに行くことにした。電話でその旨を伝えて行ってみると、ちょうど彼のガールフレンドであるソフィアが遊びに来ていた。ジョージよりも15歳くらい若く、年齢は24歳で背は167くらいありスラっとして、ブロンドのロングヘア―で可愛らしい女の子だった。今回会うのは2回目で、僕に対しても笑顔で気さくに話しかけてくれていた。
「ハロー、ナオト!」とソフィアは可愛らしい声で微笑んで言った。
「ハロー、ソフィア!ジョージから車買ってもらったんだって?」
「そうなの!ローバーMG買ってくれたの!」と、ソフィアは嬉しそうに満面の笑顔で言った。ローバーMGはローバーのちょっとしたスポーツバージョンカーでイギリスでも人気があった。イギリス価格でも20000ポンド(400万円)はした。
ジョージは本気でこの子とつきあっているんだな、と僕はその時確信した。
「昨日の道場はどうだった?」とジョージが尋ねてきた。
「昨日は4人だったけど充実していたよ。なんせ、その前は誰も来なかった
からね」
「そっか、前回よりは良かったね。ところで今、ナオトの2つ目の道場の場
所を探していたところだったんだ。さっきそこへ電話して聞いたら空手の
稽古利用もできるらしいので、これから一緒に行ってみるかい?」
僕はこの状況下でのジョージのやさしい言葉が身に染みた。
「もちろん行くよ!」と僕は笑顔で即答した。ジョージは電話帳を片付け、僕ら2人でベンツに乗ってその場所に向けて出発した。ソフィアはお留守番になった。
その日はイギリスにしては快晴で、ドライブが心地良かった。イギリスは日本と違って都心部以外に信号はほとんどなく、交差点ではラウンドアバウト(道路がリング状になった交差点)という交通方式で、その円形になった環状道路は時計回りに走ることになっており、右方向からの車に注意しながら入って、そのまま行きたい方面に抜けて行くというものだった。それもあって渋滞もなく、20分くらいして、あっという間にハイスからその道場に使えそうなコミュニティ施設のあるマーゲートという場所に到着した。ドーバー城が近くにあった。
そこは日本の公民館のような施設だった。いくつかの部屋と、体育館が併設されたかなり古い建物だった。サンドイッチの新しいスポーツジムとは違って、年季の入った飾り気のない建物だった。そのコミュニティに来ている人たちも、老人やちょっと理解できない言葉を発している30歳くらいの男性がいた。後でわかったのだが、彼はドラッグ中毒患者だった。だがこの時はそんな状況もわからず、取り敢えず、月曜日と木曜日の週2回は道場として使えるということと、サンドイッチの道場よりも安く借りられるということもあり、僕とジョージは受付の女性からの説明を受けると早速契約することにした。
これで週に3回は道場を運営できるわけだから、そういう点では気分的にかなり安心することができた。その後、ジョージと近くのフィッシュ・アンド・チップスの店に寄り、僕達は白魚のフライ、とポテトフライ、それにコークを注文した。
日本の天婦羅屋のように油の匂いがプーンと鼻を突き、またそれが食欲をそそった。イギリスの定番食品で、かなり油っぽいがビネガーをかけてコークを飲みながら食べると、その油っぽさが中和されてそのサクサク感も相まってとても美味しく感じられた。新しい道場を得られた嬉しさもあって、なおさら美味しく感じられたのかもしれない。
それから僕たちはジョージ邸までドライブし帰途につくと、ソフィアがソファでお茶を飲みながら待ってくれていた。
(続く〜)
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