
帰国後の試練
僕と由美はその後、約13時間後にようやく日本に辿り着いた。成田空港にいる多くの日本人を見て、久しぶりの日本という実感が湧いてきた。そして、とにかく和食が食べたくて仕方なかった。夜9時を回っていて実家で両親も待っているので、乗換駅の新宿で降り、立ち食い蕎麦屋に入った。僕が狸蕎麦を、由美は天ぷらうどんを注文した。
「おいしいね!」と僕が由美に言うと、
「うん、最高!」と久しぶりとも言える満面の笑顔で由美は答えた。
店内に漂うそば屋特有の香りを嗅いで、僕は本当に日本に帰って来たんだなぁ、と再度実感することができた。そして僕は久しぶりに熱々の日本食を食べて、400円の蕎麦がこの1年間で最高の料理に思えたくらいの幸せを感じた。
食事後、僕らは石神井にある実家に直行した。取り敢えずしばらくは、由美と共に僕の実家に身を寄せることしたのだった。帰国の直前に父親に電話をかけ、
「ビザの関係で、一時的に帰国しなくてはならなくなったんだ。もしかしたらそのまま日本に残って、イギリスでの生活は諦めなければならないかもしれないんだ」と話すと、
「わかった。いつ帰国するんだ?詳細がわかったらまた連絡しろ」と、思いがけない優しい返答が返ってきた。僕はまた、どやしつけられるのではないかと少しびくびくしていたのだった。電話口ではやさしそうだったとしても、面と向かったらまた状況が変わるかもしれないな、という心配がまだ拭い切れないでいた。蕎麦屋を出て、西武新宿線の急行電車に乗り30分くらいかけて実家に着いた。そして、石神井の家にしばらくぶりで到着し、ドアを開けると両親が出迎えてくれた。
結局この時も父親は一言も文句を言うようなことはなかった。口うるさかった父親だったが、嫁さんを連れて来たこともあってか、または、父親も年を取ったからなのか、その理由はわからなかったが優しく迎えてくれたのだった。
「おかえり」と父親が優しい口調で言った。
「ただいま。久しぶりだね。しばらくお世話になるよ」と僕は予想外の父親の対応に驚きながら言った。
父親はにこやかで、隣にいた母親もにこにこしながら、
「遅かったねえ、9時くらいには着くんじゃなかったの?」と柔らかい口調で言った。
「新宿の蕎麦屋に寄ったから、少し遅くなったんだ」と母親に言った。そして久しぶりの日本の風呂に、まず僕から浸かった。由美は居間で両親と談笑していた。日本の風呂は湯船に浸かることを重視しているが、イギリスの湯船はそうではなかった。底が浅くて、シャワーを浴びる際の受け皿となるくらいにしか設計されていないのか、寝るようにして浸かるよう設計されているのか分からなかった。しかし、日本の湯船はなんと心地よいのだろうとこの時痛感した。久しぶりの日本の湯船は最高に心地良かった。
風呂から上がって、父親にはきちんと説明する必要があったので、父親のいる居間に1人で行き、
「イギリスではビザが取得できなかったけど、もう一度別のやり方で申請するのでその結果がわかるまでの間、実家に滞在させて欲しいんだけどいいですか?」とお願いした。
「まあ、いいよ。しばらくいなさい」と父親はそれを了承してくれた。予想以上に優しい返事だったので安堵した。当面の間、英語講師として働くつもりだった。
イギリスのアパート代は支払いを継続し、ビザが取得出来た際にはいつでも帰れるように大家には伝えてあった。毎月それだけのために8万円は大きかったが、実家にお世話になることでなんとか凌げそうだった。
3回目になるイギリスのビザ申請は、スポーツインストラクターとして労働するというカテゴリーで申請した。1回の申請で約6万円かかったので、3回申請して、合計20万近くを費やしたことになる。
その後、3か月ほどした7月下旬のある日、講師の仕事を終えて帰宅すると、ようやくイギリスから1通の封書が届いていた。僕はドキドキしながら中を開けた。結果は「却下」だった。僕はしばらくの間、放心状態になった。常に前向きな姿勢は失いたくはなかった。でも、3度も却下されたことと、この時期のイギリス情勢はテロ行為なども多発し、海外からの移民の受け入れはさらに厳しくなっていたということも考慮して、僕はイギリスでの夢を断念することに決めた。それこそイギリスに永住するつもりで、死にもの狂いで挑んだ、イギリスでの空手道場経営という夢はあっけなく消えてしまった。僕の道場生達には、
「父親が癌になったので一旦帰国します。でも必ず戻ってくるのでその時を待っていて下さい」と言ってから帰国したので、彼らに対して大変申し訳ない気持ちで一杯になった。そして、まるで自分が担任をしている生徒達を置き去りにしてしまったようでやるせなかった。でも、いくら考えてもこれ以上どうしようもなく、諦めるしかなかった。
家にいた由美には真っ先にこの結果については伝えた。
「さっきビザ申請の結果が届いたけど、また却下だった」と僕が言うと、少し間を置いて、
「そっか、もう仕方ないね、日本で頑張ろうよ。私も日本だと友達も多いから楽しく過ごせるし」と、前向きな返答をしてくれた。その後、父親にも伝えたが、あまり驚いた様子はなかった。いずれにしても日本で再び、何か定職を得る必要があった。そしてさらに、イギリスに残してきたものを処分しなければならなかったし、自分の道場についてもその後どう対処していくかジョージと相談する必要があった。数日後、心が落ち着いてからジョージに電話をし、イギリスでの生活を断念する旨を伝えた。ジョージはとても残念がってくれた。僕が残留できるような署名活動もしてくれていたようだったが、それを活用する機会がなかった。もしかしたら、その署名なども利用してビザ発行の申請ができたらなぁ、と考えたりもしたが、全くの情報不足で如何ともし難かった。
彼にはアパートの引き払いに伴う家財の処分をお願いした。車も駐車場に停めたままだったので、車両処分も頼まなければならなかった。アパートのオーナーには僕の方から電話で連絡した。それから数日たって、オーナーから封書が届いた。
そこには、デポジット(敷金)をすべて没収するとの旨だった。その理由は3つあり、1つは引き払う際、洗濯機を外したとたんに水が溢れ、階下に水が流れ込んでしまったとのことだった。
2つ目は、僕がその部屋を10月に最初に借りた時に、窓の隙間から風がヒューヒューと音を立てて入って来て寒かったので、それを防ぐためにシールグッズを購入して窓枠に張り付けておいたままだった。そのシールを勝手に張ったからだということだった。そのアパートは、海岸からわりとすぐの所にあり、部屋の窓から海を見ることができたが、海からの強風が窓を直撃することが多かった。
3つ目は、シャワーホースが安っぽかったのでより良いものに一時的に交換して、元のホースを棚にしまっておいたのだった。これらの事が契約違反に該当し、敷金が没収されることになったとのことだった。
僕としては、窓枠のシールは剝がすだけだし、ホースも5分で元に戻せるので納得いかなかった。でも、ジョージと道場のボランティアの道場生達が洗濯機を外してくれた際の不手際が原因で料金を請求されたのだろうと前向きに考え、預けてあった10万円は諦めることにした。
それとは別に、1つ問題が生じた。ちょっとしたことでジョージを怒らせてしまったことだ。面と向かってならおそらくそういうことはなかったかもしれない。しかし、メールの文体だけでのやり取りだと、よほど注意していないとよく起こりうる事だ。
ジョージはアパートの引き払いと車の処分に関わる後始末を引き受けてくれたり、ようやく無事に家具も売ってくれたりと、スムーズに事を進めてくれたのだった。ところがまだ、僕らの私物の入った2箱の段ボールが、そのままアパートに残された状態だった。それも日本に送ってほしいと頼んであったので、僕はそれらが届くのを心待ちにしていたがなかなか届かなかった。
僕は仕方なくジョージにメールで再度頼んだ。するとジョージから返信があり、荷物の事よりも彼は空手4段に昇段し、その嬉しさを僕に伝えてきたのだった。僕は、正直言ってジョージの昇段のことよりも、これからの日本での生活のことで頭が一杯だった。以前なら「おめでとう!4段昇段凄いじゃないか。本当に良かったね!」というような気持の入った祝福の言葉も自然と言えたはずだが、なぜかその文言で返信することが出来なかった。これはジョージへのジェラシ―だったに違いなかった。ジョージはイギリスで成功し、さらに昇段し、歓喜している一方で、僕は失望の真っ只中にあったのだから。当然、僕からしたら、
「おめでとう!」と淡白な返事しかできなかったのだった。
それに加え、僕は早く荷物を送ってほしいと、ジョージのことよりも自分の要求が最優先になっているような、友情を感じさせない文面を送ってしまった気がした。案の定、その後ジョージから返信はなく1か月ほど経った頃、僕はさすがに我慢できずジョージの携帯電話に連絡してみた。結局、何度かけても出ることがなく、すぐに留守録になってしまう。数十回目でようやく本人が出たので、ほっとしたのも束の間で、
「ハロー、アイキャントヒアユー(何言っているか聞こえないよ)」と、子供のような嫌がらせの受け答えをされたのだった。そしてそのまま切られてしまった。当然、ジョージには僕からの電話であるということはわかっていたはずだった。
僕はさすがにショックで、イギリスでの確執があったとはいえ、あんなに仲良くしていたジョージからそんな振る舞いをされたことに失望させられた。
それでも僕は気を取り直して、再度ジョージにメールを送ることにした。それには、「そんな振る舞いは信じられないよ。いつから君はそんなに偉くなったんだい?配送を頼んでいるだけじゃないか」と、僕も少し冷静さを失ったような内容で送ってしまった。その後すぐに返信があり、
「君の方こそ偉そうに言っているじゃないか、何だよその態度は?」
僕は売り言葉に買い言葉になっているような気がしたので、冷静さを戻そうと懸命になった。そして最後には、
「ジョージ、君は空手の師範なんだよね、もっと紳士的に話ができるはずだよね、僕を失望させないでくれよ」とメールを送った。そして、すぐには返事が来なかったが、翌日、ジョージから、
「了解したよ、すぐに荷物を送るから待っていてくれよ」という返答がようやく返って来て、僕はほっとした。
そして、2週間ほどしてその2箱の荷物がようやく到着した。その郵送費は家具や車を売却してもらった費用で賄うことができた。
僕は、余った多少の端数の金額は返さなくていいということと、郵送してもらったお礼をメールでジョージに送った。僕が作った道場についてはあえて触れなかった。もうジョージの後輩が僕の代わりに指導に当たってくれていたようだった。本当に惜しいし、悔しいけれど、まるで自分が作り上げた一つの会社を、他人に無償で譲渡してしまったような気がした。
その後、自分の道場生の一人で、一番信頼を置くことのできたファイザー製薬の研究員であるアイラにはその旨をメールで伝えた。彼女はとても残念がっていた。アイラは二人の可愛い小学生の娘と共に彼女自身も真面目な道場生だったので、帰国後も気にかけていた。僕はこれを機に、日本での身の振り方を真剣に考えなくてはならなかった。
(~続く)