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セント・ローレンスカレッジとの出会い


  街頭ではビラを配るだけでなく、左右の回し蹴りや飛び後ろ回し蹴りなどのデモンストレーションも交えながら行ったが、慣れてきたとはいえ公園よりも緊張感は相当なものだった。

  そんな日々を送っていたある日、僕と由美は車に乗って近隣の小学校を回っていると、立派な校舎を構える大きな学園キャンパスを発見した。取り敢えずここも配っておこうと思い、正門前に車を停めて外に出た。学園の名前は「セント・ローレンスカレッジ」だった。しかし、僕はその壮麗な雰囲気の学園風景に圧倒され、こんな学校には相手にされないな、と思って車に引き返した。すると、「どうして行かないの?」と由美は訝しげに言った。

「ここはちょっと立派すぎるから相手にされないよ」と僕は言った。

「そんなのわからないよ。行くだけ行ってきなよ!」と由美は今までにないくらいの強いトーンで言った。

「わかった。行ってくる」と僕は由美に衝き動かされるように言って、その学園のエントランスに入って行った。日本で言えば、青山学院や立教のようなレンガ作りの校舎で伝統のありそうな学園だ。僕が中に入ったちょうどその時、1人のすらっとしたグレーのスーツを着た中年女性が目の前を通りかかった。彼女は僕に気づくと、微笑みながら、 

「ハロー、何かご用件は?」と言った。

 「こんにちは! 僕は空手のインストラクターで、ナオト・イシガミと言います。自分の道場の宣伝に回っていて、こちらの生徒さんに持参したビラを配っていただけないでしょうか?」と僕はその真面目そうな眼鏡をかけた中年女性に言った。

 「あなたは空手の先生なのですね!凄い!私はこの学校の副校長で、デビーといいます。ちょうど私たちは空手を子供たちに教えられないかと思っていたところなの。ちょっと待っていただけます?」とその副校長は少し興奮して嬉しそうな表情で僕に言い、近くにあった廊下に備え付けの電話に手をかけ、内線で電話をかけた。

「ミスター・ターナー? デビーだけど、今エントランスに空手のインストラクターのジェントルマンが来ているの。今そちらに案内してもいいかしら?」と言った。

僕はスーツにネクタイを身に着けていたのでジェントルマンと言われたのだ。イギリスでは身なりがすべてだと、この時改めて感じさせられた。

  デビーは受話器を戻すと、校長のいる部屋に僕を通してくれた。思ったよりも小さめの部屋に通された。そこは校長室ではなく、生徒を指導したり来客を待たせたりするような部屋のようで、意外と簡素な雰囲気だった。中にはすでに校長先生と思しき大柄な初老の男性が座っていた。水色のシャツに黄色のストライプのネクタイを身に着け、英国紳士という名称にふさわしい男性だった。

「ハロー、初めまして。僕は日本から来た空手のインストラクターで、ナオト・イシガミといいます」と僕はやや緊張しながら言った。

「私はこの学校の校長をしているターナーといいます。初めまして」と温厚だが貫禄のある口調で言った。そして2人は固い握手を交わした。

僕はこの後、自分の経歴や空手道場の宣伝に回っている旨を伝えると、

「本校では放課後にアクティビティの授業があります。その時間に空手の授業をやってくれませんか?ちなみに社会保障番号はありますか?」とターナー校長は微笑みながら言った。

「今、ビザを申請中で、まだそれは持っていないんです。車の中にレファレンス(経歴と推薦文が書いてあるもの)があるので取って来てもいいですか?」と僕はそのオファーに驚きながらも答えた。そして、駐車してある車の所まで急いでそれを取りに戻った。日本を出発する前に、僕のために高校のALT(Assistant Language Teacher) [外国語指導助手]の先生が書いてくれたレファレンスを持って来ていたのだった。車に戻ると、由美は何かを聞きたそうな顔をしていたが、僕は由美に微笑んだだけで、何も言わずに車内に置いてあった書類を見つけるとすぐに校長の待っている校内に戻った。僕は室内に戻るとすぐに校長にそれを手渡した。ターナー校長はしばらくそれを見て頷きながら、さらにそれを副校長に見せた後、

「素晴らしい経歴だね。信頼されるいい先生なのですね。是非うちの学校で教えてもらえないですか?1時間につき25ポンド(5千円)でどうですか?」と突然のオファーに僕はさらに驚き、嬉しさのあまり二つ返事でそのオファーを受けることにした。すると早速、副校長のデビーから、

「来週の火曜日と水曜日の6時半からお願いできますか?」と言われ、ちょうど他の道場の指導時間に被っていなかったので、

「わかりました。よろしくお願いします」と僕は快く返答し、部屋を後にした。

僕は車に戻って、待っていた由美にこのことを伝えると、

「すごいじゃない!時給5千円なんだ!良かったね!」と由美は満面の笑顔で言ってくれた。

「何事もやってみないとわからないものだね。行ってみて良かったよ」と僕は笑顔で言った。

僕らは夕食の食材を買うため、帰宅途中にTESCOのスーパーマーケットに立ち寄った。

  僕はスーパーマーケット内にある公衆電話から、ある女性に今日の嬉しい出来事を知らせてあげようと思った。ジョージの道場で、息子さんが道場生の母親で、道場の秘書業務をボランティアでやってくれているジョアンナという女性に電話でこのことを伝えた。彼女には1度自宅に招待してもらい、道場宣伝用の写真として、僕が空手着を着た姿の写真を撮ってもらったり、英語の発音を丁寧に教えてもらったりしたことがあり、とても親切にしてもらっていた。ジョージ以上に親身に気遣ってくれた人だと言ってもいい。

ところが、僕がその旨を伝えると、

「ナオト、それはいいことじゃないと思いますよ。セント・ローレンスカレッジはナオトが旅行ビザで来ているのは知っているんですか?」とジョアンナは心配そうな口調で言った。

「はい、伝えたのでわかっていると思います」

「でも、もし、働き始めたら、法律違反だし、学校の人にも迷惑がかかるからやるべきではないと思うの」と、少し強い口調で言われた。僕は喜んでくれると思っていたジョアンナの反応に少し違和感を抱いていた。

「ノーサンキュー、僕はやるつもりです」と、僕もやや強い口調で、しかも、ノーサンキューという言葉を使ってはっきりジョアンナからの助言を断ってしまった。

「オーケー、ナオト。でも、相手に迷惑がかかることがありうるということだけは覚えておいてね」

「わかった、いろいろとありがとう、ジョアンナ」と僕はそう言って受話器を置いた。僕がそこまでやりたかったのは、セント・ローレンスカレッジの管理職の先生たちが起こりうるかもしれない危険を犯してまで僕を採用してくれて、その期待にどうしても応えたかったからだった。それに定期的に収入も得られ、まだ見ぬセント・ローレンスカレッジの生徒達との新たな交流に胸が高鳴っていたからだった。僕はジョアンナとの関係が多少悪化したとしても、とにかくセント・ローレンスカレッジでの仕事をやり遂げたいと思っていた。

   僕は翌週の火曜日と水曜日の夜6時半から1時間の課外授業を担当することになっていた。火曜日は小学生の低学年で水曜日は中学2年生のクラスだった。火曜日当日になると、僕は早めにセント・ローレンスカレッジに車で赴き、更衣できる場所を聞きに事務室へと足を運んだ。

「すいません、空手を教えに来たナオト・イシガミです」

「ハロー、ミスター・イシガミですね。子供たちは朝から興奮していましたよ!」と事務所の眼鏡をかけたやや細身の女性は微笑みながら言ってくれた。

「ありがとう。どこで着替えたらいいですか?」

「体育館横に更衣室があるのでそこで着替えて下さい」

「わかりました。ありがとう」と僕は言い、体育館に向かった。

体育館に入ると1人の初老の男性が目の前を通り過ぎた。ベージュのツイードジャケットを着て、薄ピンクのワイシャツにグレーの蝶ネクタイをしており、どことなく芸術家のような雰囲気があった。

 「すいません。更衣室はありますか?」

 「更衣室はその右手にありますよ」と初老の先生は言った。ちょうどその時、中学生くらいの少女が1人やって来て、僕らに軽く挨拶をして、その更衣室の斜向いにある音楽室に入って行った。その先生もその部屋に入って行った。やはり音楽の先生だった。僕は空手着に着替え、大きめの体育館に入って行った。すると、さっきの音楽の先生が、

 「おっと、そこじゃなくって、左手にある小ホールだよ」とニコニコして言ってくれた。
 「サンキュー」と僕は言い、その小ホールへと向かった。行ってみると、そこは小さめだが綺麗なホールだった。まだ誰も来ていなかったが、僕はとてもわくわくしていた。自分の道場へ来てくれた方が稼げるのだが、安定した仕事でもあるので快く引き受けたし、こういう交流も僕にとっては新鮮で魅力的だった。

   僕が準備運動をしながら待っていると、1人の30代前半くらいのスラっとした、金髪の短髪で七三に分けて眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな男性教員を先頭に、20人くらいの小学生低学年の男子生徒達が白い体操着姿で、1列で入場行進のように入ってきた。中には空手着をすでに着ている2人の生徒もいた。前にどこかで習っていたのだろう。数人の生徒達が、

「ハロー!」と言ってきた。

「ハロー、ナイストゥーミートゥユー!」と僕が言うとその教員がやってきて、

「はじめまして、よろしくお願いします!僕はマイクと言います。今日は最初なので、前半見させてもらってもいいですか? その後、僕にはまだ小さい子がいて、自宅で世話しなくてはならないので、帰らなければならないんですが」とマイクは、気さくだが礼儀のある態度で言った。この学校は全寮制で優秀な生徒がイギリスのみならず海外からも集まってきている学校で、雰囲気はまさにハリー・ポッターのボグワーツ魔法学校のような雰囲気を醸し出していた。

  「ナオト・イシガミです。こちらこそよろしくお願いします。わかりました。大丈夫です。任せてください」と僕は笑顔で言って、彼らを2列に整列させ、自己紹介をした。準備運動の後、早速、正拳中段突き、前蹴りと回し蹴りの基本を教え、最後には、僕が竹刀を高く掲げてボール蹴りをさせるなどしてサービスに徹した。教員のマイクは最初に言っていた通り、途中で安心した様子で帰って行った。子供達は真剣で、とても可愛く、中には初日から青いマウスピースをしてきた子もいた。こういうところで育ちの良さがわかる。全員が白人ではなく、インド人やアフリカ系の子もいた。

あっという間に1時間は過ぎ、この小学生クラスはなかなか良い雰囲気で終了した。稽古終了後に、

「イクスキューズミー、ミスター・イシガミ」「僕の蹴りはどうですか?」と金髪の小学校2年生くらいの可愛い男子が僕の所に来て尋ねた。ダニエルという子だった。

「いい回し蹴りだね、ダニエル! もう少し腰を入れて蹴るといいよ!」と、僕は笑顔で答えた。礼儀の正しさと、構って欲しい甘えん坊のお坊ちゃんという雰囲気があった。皆、笑顔で帰っていった。

  そして、翌日の水曜日は中学生を教える日だった。僕は前回と同じように空手着に着替えてホールで待っていると、十三、四歳の男子生徒たち15人くらいが入ってきた。小学生の部の子たちと同様に礼儀正しかった。彼らは小学生と違って体格もほぼ僕と変わらず、一番大きな子はアフリカ系の少年で名前はマシューといい、僕より大きく、身長は175くらいで80キロくらいの体重はありそうだった。少年たちは皆体格がいいので、僕は最初から軽くスパーリングをやらせてみようと考えた。小学生たちと同じように準備運動から基本的な技を教え、飛び蹴りも教えた。

  最後に一人ずつ、僕と軽くスパーリングをやることにした。念のために用意していた脛あてサポーターを一人一人順番に履かせ、他の生徒達は立ってそれを見るように指示した。最初の生徒は160センチくらいの細身の子だったのでかなり手加減しなければならないと思っていた。しかし、この子はたじろぐどころか、最初から勢いの良い調子でパンチを僕の胸や腹に打ってきた。僕の教えている空手のスタイルは直接打撃制(フルコンタクト)で、顔面へのパンチと急所以外の攻撃はどこでも思いっきり当てても良いのだ。でもさすがに最初なので、蹴りも放ってくるがなかなかうまく僕には当たらない。僕はある程度、彼のパンチをいなして受ける方に回っていたが、どんどん調子に乗ってかなり強いパンチを繰り出してくるので、こちらも多少は攻撃しなければと思った。仕方なく左上段回し蹴りをその生徒の右頬に軽く見舞ってやるとかなり驚き、もう強く打ってこなくなった。そのタイミングで僕は、

  「やめ!」と言ってスパーリングを終えることにした。やはり中学生ということもあり、力もあるし調子にも乗りやすい。フルコンタクトルールでは、相手の突きが腹に入っても一本にはならない。しかし、生徒の中には僕がフルコンタクトルールを説明したにもかかわらず、自分の突きが僕の腹に寸止めで入ったのだから自分の勝ちだと主張する生徒もいた。俺の方が強い、というようなことを大きな声で叫んでいたので、もう一度他のみんなにもルールを説明した。

  とにかく、中学生の部の生徒達にはより注意を払って指導する必要があると僕はこの時痛感した。

(続く~)

St Lawrence College

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