![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/144278540/rectangle_large_type_2_8593bb6ce8dd04367977d93eb7e0c6d9.jpeg?width=1200)
道場生たちからの不信感
翌日の朝目覚めると、もう午前9時を回っていて、ジョージが朝支度をしている物音が聞こえてきた。ジョージは新しく増設した二階で寝ていたようだった。その日は、部屋の窓から日光の明るい日差しが差し込んでいて、イギリスでは珍しくよく晴れているようだった。僕は部屋から出て、キッチンにいるジョージを見つけ、
「おはよう!」と言った。
「おはようナオト!よく眠れた?もう朝ご飯はできているよ!」とジョージはやさしい言葉で言った。
「よく眠れたよ、サンキュー」
僕は以前に訪問の際にも嗅いだことのある、ジョージ邸独特のローズマリーの香りを嗅ぎながら、ついにイギリスにやって来たんだという実感が再度湧いてきた。
ジョージの家は平屋にしてはとても広く、一階だけでも3LDKで、ゆうに20畳以上のあるリビングルームだった。また、晴れた日には眩いばかりに映る直径50メートル、幅が15メートルくらいのグリーンの芝生の庭がリビングルームの先に広がっていて、まるでちょっとしたゴルフ場のようにも見えた。
僕らはベーコンエッグにトーストと紅茶という、日本の納豆と目玉焼きに味噌汁のような、典型的なイギリスの朝食を済ませた。そして、ジョージが紅茶のお替りを僕のカップに注ぎながら、
「ナオト、道場のシステムについて説明するよ」と言った。僕は真剣な眼差しで、「はい、お願いします」と丁寧に言い、生徒のようにジョージからの話を熱心に聞き入った。気が付くと2時間以上も経っていた。内容は道場経営方法と、うまくいくと年収はどれくらいになるか、といった大学の経済学講義のような話だった。彼の説明によると、現在、彼の年収は2400万円ほどらしい。
「ナオトなら少なくとも教員の給料以上は稼げるよ。いや、僕と同じか、それ以上かもしれないね」などと、僕の金銭欲を煽るような言い方もしてきたが、まだ僕にはピンとこなかった。
それから間もなくして昼食の時間になり、ジョージがトマトソースのパスタを作ってくれた。少しピリ辛だがレストラン並みの美味しさだった。どんな味付けかは聞かなかったが、彼の料理の手腕は優れていた。
午後3時を回ったところで、そろそろ道場に行く準備をしようということになり、道着などをバックに詰め、ジョージ邸を出ることになった。外は相変わらずいい天気だった。ジョージも天気の良さに喜んでいた。
僕は彼のメルセデスに乗り込み、道場として利用しているハイスという町の小学校へ行く前にまだ時間の余裕があるということだったので、その前にジョージの買い物に付き合うことになった。まずはTESCO(テスコ)という大型ショッピングセンターに行った。ここは、当時の日本にはなかったような広々としたスペースのあるスーパーマーケットであり、陳列品の数も日本のスーパーとは比較できないほど多かった。日本のイオンスーパーの1・5倍の広さはあった。その店で数日分もの食品をジョージは大型のかごに詰め込んで会計を済ませた。その後、ジョージの行きつけのカフェに寄って少し休憩をした。そのカフェは木造りでかなり年数は経っていたが、通りの角にあり、吹き抜けでおしゃれで明るい雰囲気だった。僕たちはそこでカフェオレを2つ注文し、少しくつろいでからハイスの道場になっている小学校へ向かった。
小学校に着くと、車がすでに10台以上駐車場に停まっていて、僕らが車から出ようとしている時も、次から次へと車が入ってきた。それはこの道場の盛況さを象徴していた。道場として利用している体育館に到着すると、20人以上の小学生らしき大小の子供たちで賑わっていた。ジョージと僕が入ってくるのを見るなり、
「押忍!」という可愛らしい子供たちの挨拶が体育館に響き渡った。その後、僕は空手着に着替え、金色の線が2本入った2段位の黒帯を締めて現れると、
「ブリリアント(素晴らしくかっこいい)!」と道場生の中の1人の男の子
に言われ、僕はちょっと誇らしい気分になった。
そこへ黒帯を締めた2人の黒帯指導員がやって来た。一人はジャックという名でガタイのいい金髪の坊主頭で、目が鋭く、いかにも格闘家という雰囲気を備えた男だった。年齢は20代後半のようだった。1年前に会った時は、まだ3級(緑帯)だったが、すでにこの時は初段を取得し、指導員として先頭に立って活躍していた。ジョージの道場生としては伸び盛りの、現役ファイターだった。
もう一人はオリバーという名の男で、刈り上げのブラウンヘアーで、身長は185センチくらいあり、体重も100キロはありそうな大男だった。右腕に竜のタトゥーが入っていて、いかつそうに見える。年齢はジャックよりも年上の30代半ばに見える。彼はその恵まれた体で他の道場生を圧倒するくらいの雰囲気があった。でも、僕への挨拶はジャックと同様にイングリシュスマイルで礼儀正しかった。
その日はこの少年の部を含めて、最後の大人の部を含めると全部で3部のクラスがあった。少年の部は最初が小学校低学年で、次が高学年に設定されていた。僕は7時から始まる大人の部でもスパーリングはやらずに道場生へのアドバイスに徹した。渡英してまだ日が浅く、時差ボケもあるのと、生活状況の変化で体調が優れなかったからだ。日本では白米ご飯があれば力も漲るが、ここには日本米は見当たらず、トーストと肉だけでは日本人の僕にとっては体調管理が難しかった。やはりパンでは力が出ない。かといって、イギリス人のようにステーキなどの肉ばかり食べたいとも思えなかった。力が出ないのが分かったのは基本稽古の指導中で、いつもは力強く上がる蹴りのキレの悪さを感じた時だった。そんな状態で屈強なイギリス人の大男とスパーリングをして負けるわけにはいかなかった。
しばらくそんな日々が2週間ほど続いたある日、僕は日本米らしきものを売っている韓国食品販売店をカンタベリーの街でようやく見つけることができた。カンタベリーの街はジョージ邸から車で20分ほどの所にあった。TESCOなどのスーパーマーケットでも米は売っていたが、すべてタイ米で、パサパサした食感も嫌であまり食べる気にはならなかった。また、ちょうどその頃、ジョージからいいスポーツジムを紹介してもらった。僕はそこへ通い始め、久しぶりにバーベルスクワットやベンチプレスで筋トレも出来るようになっていた。そこのジムはボディビルダー専門のジムのようで、いい大人なのにピチピチの半ズボンを履いて脚の筋肉美を見せつけるような男性ばかりいた。
そうやって僕はイギリスでの生活にも少しずつ慣れ、体調も回復し、以前のように体力も戻りつつあった。しかし、大人の部の道場生からの僕に対する視線があまり良くない状況になっているのはわかっていた。僕は2週間以上スパーリングに参加せず、ただアドバイスばかりしている小柄な日本人の黒帯が本当に強いのかと、道場生達から疑いの目で見られているようだった。それは言葉を聞いたわけではないが、彼らの態度や雰囲気でわかった。イギリス人の体格や強さを見て小柄な日本人は怖気づいているんじゃないか、と思われているようだった。実際、最初は僕のアドバイスに素直に「押忍!」と返事をしていたジャックやオリバーも、この頃には僕がアドバイスしても素直な表情で「押忍!」とはすぐに返答しなくなっていた。例えば、
「でも、先生、実戦ではもっと他のやり方の方がいいんじゃないですか?」と、僕の指導に疑問を呈する質問をするようになっていた。以前のような素直さが消え失せ、僕は少し見下されているような気がしていた。彼らと仲のいい友人達からもそんな視線を感じていた。それでも僕は、体力が回復するまでは、としばらくの間我慢していたのだった。もしここが日本の道場で、そういう後輩の失礼な態度があった時には、その後スパーリングで圧倒し、ぐうの音も出ないほどにすることができた。しかし、ここはイギリスで、そんな僕も、状況的に我慢するしかなかったのだ。大人の部の黒帯を含めた上級者たちからの僕への視線は、すでに友好的な感じではなくなっていた。
(続く~)