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あこがれの氷柱割り演武へ


          僕は親類への挨拶も済ませ、その後、勤務先にも退職の意志を伝えた。伝えるのが3月初旬でぎりぎりだったということもあり、上司の教頭から少し文句を言われた。その教頭は以前、教員の生徒人気ランキング表などを作って教員に配り、まるでどこかのブラック企業にいる営業部長のようなことをして教員から嫌われていた。そんな上司だったので、退職することで気分が清々して、文句を言われようがほとんど気にはならなかった。やめる理由は英国企業で働くという理由にした。多少、疑いの目で見られたが、意外とあっさり納得してもらえた。それよりも、ちょっと名残惜しかったのは、担任クラスを中心とした、生徒との別れだった。僕は熱血教員で厳しいことも生徒には言ってきたが、それでも慕ってくれる生徒達もいた。そんな生徒達との別れを惜しみながら、僕にはやるべきことが山積みになっていた。渡航の準備ももちろん、ジョージへの連絡や、金銭関係の清算など、色々とすべきことがあった。しかし、それらの準備とは別に、英国の空手道場経営者になるにあたって日本でやり残していた大仕事を成功させなければならなかった。

                 それは、この頃に通っていた松戸市にある空手道場の春の演武会での試し割り演武だった。道場の近くの商店街で毎春行われる桜まつりというお祭りイベントだった。僕はまっすぐに立てた氷柱を左右の下段回し蹴りで割り、4本平置きに重ねた氷柱を手刀で打ち下ろして割るという演武を任されていた。僕は東京在住だったが、千葉の道場に東京から1時間半かけて週1回通っていた。数年前に2年間、千葉にある高校の系列校で勤務していた時に通っていた道場だった。その道場責任者は僕と同じ年齢で、割と馬が合っていたからなのかもしれないが、東京へ帰って来てからも週1回通っていたのだった。その道場では毎年演武会が催され、氷柱割りの演武はそれまで先輩の古参指導員が任されていたが、いよいよ僕の所にお鉢が回ってきたのだった。氷柱割りは僕のあこがれの演武で、前からやってみたいと思っていた。師範からの突然のオファーで少し驚いたが、これは絶好のチャンスだと思って快諾した。演武までは1か月を割っていたが、英国へ発つためのいろいろな準備と並行してその準備も推し進めなくてはならなかった。

                そのために、まずは砂袋で脛(すね)を鍛える必要があった。近所の喫茶店からコーヒー豆の入っていたズタ袋をもらい、その中に砂を詰めて、無印良品で買った2段式洋服ハンガーラックの低い位置のバーの所にそれを吊るした。そうすることで数時間経つと、底のほうの部分が固まってサンドバック以上に固くなる。そこに両足の脛を毎日コツンコツンと何回も軽く当てていくことで、脛が強固になり、バットや氷でさえも割れるようになるという理論なのだ。理論上間違っていないし、先輩がやってきたので、練習すれば自分にも当然できるはずなのだ。しかし、実際に脛で氷を割って、脛の骨は折れないものかという不安はいくら脛を鍛えてもなかなか拭えないでいた。そんな不安感から、僕はさらにバーベルスクワットも欠かさずに行った。僕は体重が72キロくらいだったが、その時は200キロまで挙げていた。足のパワーが向上すれば、氷柱も折れやすくなるだろうという判断からだった。

         それから約一か月があっという間に経ち、1つだけ気にかかっていたビザ申請の件を除いて、出発の準備などは概ね順調でこの演武だけに向けて集中することのできる状況だった。僕が演武会に向けて練習し始めたちょうどその頃に、書店で「イメージトレーニングの効果」という内容の本が売っていて、思わず買ってしまった。イメージトレーニングに関しては、最初に僕が空手を教わっていた先生からもその効用を聞かされていた。僕が試合に出場していた頃、いつも相手を倒すようなイメージトレーニングをしていたことを思い出した。ただ、そのことはしばらく頭から離れていた。この機会にはいいかもしれないかと判断し、購入することにした。著者はアメリカ人の経営コンサルタントだった。内容は同じように思えたが、より具体的にその手法と効果などについて詳述されており、氷柱割りの演武が不安になっている僕にとっては打って付けの本だった。それからというもの、毎日シャワーを浴びながら氷柱が粉々になって演武会が大成功に終わるというイメージトレーニングを行っていった。

             そして、あっという間に演武会当日の朝を迎えた。僕はさすがに緊張感からか、前の晩は熟睡できなかった。しかし、緊張しながらも、朝からやる気が体中に漲っていた。演武会は昼の12時からだったので、10時前には家を出て、車で外環道に乗り、16号線に出ると、そこから約1時間かけて千葉の船橋にある道場に、11時を少し回ったくらいに到着した。早速、空手着に着替え、師範や後輩達と緊張した面持ちで簡単に打ち合わせをした。他のみんなも顔が少しこわばっているようにも見えた。そうしているうちに開始時間が近づいてきたので道場生全員が道場を出発した。外はよく晴れており、桜もほぼ満開で、3月下旬にしては少し暑いくらいの陽気で、春特有の新鮮な暖かい空気の匂いがした。鳥がチュンチュンと、いい音色の鳴き声を発し、その日はまさに春到来といった春日和だった。

          商店街を演武の行われる広場に向けて5分ほど歩いていくと、道路を封鎖して作った即席のイベント広場があった。そこが演武会の会場になっていて、すでに人だかりができていた。僕らは到着後、すぐに整列し、準備運動をした後に、少年部から早速演武が始まった。僕は黒帯なので、少年部の正拳での板割り演武の持ち手を任されていた。

               何人かの道場生達がそれぞれの演武を終えるたびに、僕自身の中で、緊張感が徐々に増していくのがわかった。ある意味それもいい緊張感だった。僕は大トリで最後の演武なのだが、あっという間に僕の順番が回ってきそうな勢いだった。後輩達の演武を手伝いながら見て待っている間に、僕は人だかりの中に職場の友人である大西貴史が応援に駆けつけてくれているのを発見した。

         彼は僕より3つ年齢が若いが、同期ということもあり、日頃から親しくしていた。演武の区切りで、僕は一旦その手伝いを終え、彼の所に駆けつけた。

「調子はどうですか?」大西は笑顔で言った。

  「絶好調だよ!」と僕は自分を鼓舞するつもりで言った。

  「いいですね!頑張ってください!」

  「ありがとう!」と、僕は笑顔で力強く言い、彼と強い握手を交わした。僕は彼のおかげで余計な緊張感を拭えたような気がした。ちょうどその頃には一般部(大人の部)による演武になっていて、肘打ちによるブロック割りや、下段回し蹴りによるバット折りなどが行われていた。バット割りが終わると、司会者役である後輩が、

      「次は本道場の黒帯指導員である、石上指導員による氷柱割りを行います」とマイクでアナウンスした。僕はそのアナウンスを聞いて、一気に脳内でアドレナリンが湧いてくるのを感じた。緊張感とは違うものだ。僕は自分自身を鼓舞し,

      「押忍!」と大きな声で答えた。そして、観客の見守る中、演武が行われている舞台の中心位置まで進み、正面を向いて一礼し、開始の合図を待った。後輩たちが軍手をはめ、氷柱を運んできて積み重ねていた。正面には氷柱が4段組み合わされ、左右には氷柱が1本ずつ縦に立てられていた。正面の氷柱は手刀で、左右の氷柱は脛による下段回し蹴りで割ることになっていた。

         そして、すぐに準備は終わり、師範から開始の合図があった。僕は少し瞑想をして、絶対にうまくいく、と自分に言い聞かすと瞑想をやめ、左自然体というファイティングポーズの構えをした。僕は

   「セイリャー!」と大きな声で気合を入れた。師範や他の黒帯からも

   「行け!そりゃー!」と大きな声で気合が入る。

     僕はまず左側の氷柱を右の下段回し蹴りで粉砕すると、ボルテージが一気に増し、左の下段回し蹴りで今度は右側の氷柱を粉砕した。その際には勢い余って持ち手の後輩にぶつかりそうになるくらいだった。二本の氷柱を蹴りで割った後、僕は体中にさらにパワーが漲ってくるのを感じた。そして最後に正面に向き直し、さらに大きな声で

      「ウリャー!」と気合いを入れ、

これで割れなかったらイギリスになんか行けるものか!と、心の中で瞬時に思い、それこそ全身全霊で氷柱を手刀で割った。手刀でも僕の勢いの方が勝り、氷柱4本は粉々という形容がふさわしいほどに粉砕された。

     「オー!」という観客からの歓声が上がった。僕は割った後、これでやるべきことはやった、これでイギリスに行ける!と思った瞬間、一瞬、妙に寂しくなってしまった。本当は大喜びしていいはずなのに。僕は演武を終えて正面に一礼し、何とも言えない感覚で元の待機場所に戻った。するとそこには、応援に来てくれた同僚の大西が労をねぎらいに再度来てくれていた。

  「お疲れ様です!」

僕は我に返って再び彼と握手を交わし、

 「ありがとう!」と彼に感謝を込めて笑顔で言った。

 「イギリスでこのビデオを見せたらイギリス人はみんな度肝を抜かれます
  ね!」と大西は撮ってくれたビデオカメラを片手に持って嬉しそうに言ってくれた。

   とにかくうまくいった、成功したんだ!という実感がようやく沸々と湧き上がって来て、僕は安堵感に包まれていた。 

   よし、これでイギリスに胸を張って行けるぞ!と僕は興奮しながら、再度心の中で意気込んだ。帰りの車中でも運転しながら、目の前の大仕事を片付けた達成感に浸っていた。

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