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なににもなりたくないし、されたくない

いっしゅう回って、ペンを執る。

久々に、パソコンを開いたのは、アプリで出会った男の子を家から送り出した日曜の朝11時だった。
ここ最近、というより1年間でいろんなことがあって、常に頭のなかには、自分を語る声が聞こえていた。けれども、怖くて、それを実際に文字にすることができなかったし、なんだかパソコンの調子が悪かったので、ずっと逃げていた。

ただ、パソコンが遅いのはWi-Fiのせいだと気付いたのと、私の大事な友達が社会人になってもずっと書くこと、考えることをやめていなかったから、私もなにかを書かなければと思って、パソコンを開いた。

私は、ぐちゃぐちゃの人生を送っていると思ってるし、それをもっとぐちゃぐちゃにして、投げ捨ててしまったのは自分だと思っている。それは知っている。ここからどうしようもないということも理解しているつもりであるが、せめて、少しでもそれを整理しようと思って、いっしゅう回って、ペンを執った。


なににもなりたくない

ここ1年の私の行動原理のひとつは、「なににもなりたくない」であった。というより、「なににもなれない」の方が正しいかもしれない。

私は、去年まで、自分がレズビアンであるというところに落ち着いていた。だが、それ以前の私の性分として、なかなかひとを好きになれない、というのがあった。
以前、書いたように、好きな女の子が何人かいた。
しかし、それは幾分か、付き合いたいという気持ちとはまた違ったものだった。ただただ、大事にしたかったし、一緒にいる時間が楽しかった。付き合えなくても、相手が生きているだけでいいと思っていた。
ある人はそれを愛とか恋とかなんだとか言うだろうが、私にはそれがなにかよくわからなかったし、それになんらかの名前を付けたくなかった。

そのような考え方は、なんだかレズビアン界隈のなかで生きづらかった。
ビアンバーに行けば、好きなタイプを聞かれる。フェムかボイか、タチかネコか、どんな顔が好きかとか、どんな子と付き合いたいとか。
それがどうにも、私の考え方に合わなかった。

しかし、だからといって、男の子を好きにもなれなかった。だが、女の子だから好きになるというよりも、人として好きになるという方が、自分の感覚に近いと思っていたので、男の子でも好きになれる人がいるのではないかと思ってもいた。
だから、男の子を好きになって、ヘテロの皮をかぶって生きていける可能性も捨てられなかった。

ずっと、どっちつかずだった。
レズビアンも名のりたくなかったし、異性愛者として生きていくこともできないとわかっていた。
なににもなりたくなかった。

なににもされたくない

一方で、「なににもされたくない」という気持ちもあった。
ノンケの女の子を好きになって、苦しんでいるバカなレズ、というテンプレート通りの人生のようにも見える私の生活を、そのままその型にはめられたくはなかった。
実際には、だれもそのことを知らないのだから、だれもその型にはめてくるということもなくて、自分で自分のことを受け入れられないだけだったのだと思う。
でも、私はそんなに賢くは生きられないから、好きな女の子をただただ眺めているだけの毎日の鬱憤と、その子に対して芽生え始めてしまった性欲と、一人でいることの寂しさを男の子にぶつけた。

まさか友達とセックスするわけにもいかないので、アプリを入れた。
正直なところ、男の子についてはだれでもそんなに変わらないと思っていたので、ちゃんとゴムを付けるかどうか、だけが重要だった。
そんなふうにしていると、いくらでも寂しさを埋めてくれる男の子はいる。

男の子に抱かれながら、「レズビアンの女に興奮して、バカだな」と悪態をついていた。しかし、そのバカな男といることを選んだのは自分だったので、セックスの最中に我に返ることもままあった。
そして、翌朝、男の子が家から出た後に、特に理由もなく連絡先を消したことも何度かあった。
それとなぜか煙草を吸っていた。吸ったらなにか楽になるのではないかという期待感があったのと、楽器を吹く私が一番してはならないことをしているという、一種の自傷行為としてだった。

とにかく、なににもされたくなくて、お前はレズだとか、ビッチだとか、どっちでもあったし、どっちでもない、と思っていたかった。

なんというか、間違っていたかった。そして、私が間違っているのは、私のせいではなくて、世界が間違っているからに他ならないと思っていた。
この世界で私が生きていくには、世界に嘘を吐いて、どちらでもあるしどちらでもない存在として、生きていくしかないと思っていた。

ただただ、どちらかを引き受ける覚悟がなかったのだと思う。
(そしてそれは今もない)

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