3 戦いの一コマ 〜比島の山中に於いて〜
又戦争の話で恐縮だが・・・、昭和19年の事である。マニラの某飛行場で航空機の整備をする一隊があった。約50名の技術兵と警備に当たる40才前後の召集兵20名余りがその主体であった。技術少尉であった私は12月頃その隊へ配属になったのである。やがて年が変わり米軍がマニラに進攻してくるのと前後して隊はマニラ東北のイボの山中に逃げ込み、河島兵団の指揮下に入った。米軍はすぐには攻撃して来なかったが、砲撃や爆撃は日毎に激しさを増していった。そして3月になると隊長のM大尉は「振武集団の本部付になった」と云い残してモンタルバンへ行ってしまった。その後、無線機の修理等をやっていると聞いたが、どうも自分で売り込んだに違いない。先の隊長にしても、陸士出の仲間と連絡して配属替えをした様に思う。こうして米軍の総攻撃を前に新入りの私が唯一人の将校として指揮をとる羽目になったのである。
大体この隊はマニラ湾で撃沈された第一八船舶航空隊の乗組員とバシー海峡で沈められた船の生き残りを集めた部隊で色々の人間がいた。さて、彼等がどのように行動し死んでいったかを記録にとどめたいと思う。まずその一人として、一兵士からたたき上げ30年近くも軍隊の飯を食って来た一人の准尉を取り上げよう。彼は中国大陸で現地人を虐殺した模様を得意気に話す様な男であった。現にマニラから撤退中、比島人を遊び半分に殺して、自分は平気だと自慢していた。平素の言動からしても一種無気味な狂暴性を感じた。マニラに居た時に先の中尉が何か注意したら、突然大声を挙げて軍刀に手を掛けたという事が兵隊の間で囁かれていた。そんなことがあったので中尉が去ったのかもしれない。又、こんな事もあった。山へ入った最初の日に召集兵のKが爆撃で破片を額に受け即死した。初めての戦死者を前に皆沈痛な表情をしていた。ところが准尉は「ハハハ・・・死んだか、隊の物資をちょろまかしては金に替えて家族に送金しよったのに、これで最後や、ハハハ」と嘲笑した。
しかし彼は見掛けによらず臆病というか、とにかく命を大事にした。敵機が飛来したり砲弾が近くに落ちだそうものなら、まっ先に壕の奥へ逃げ込んで安全になるまで決して出て来なかった。だから米軍の総攻撃が始まると彼の姿は見えなくなった。やがて山奥へ追い込められ、米軍も深追いしなくなってから、はぐれていた者が集まり出した時彼も姿を現した。その頃である。何処からともなく、東海岸に日本の潜水艦が我々を救出に来ているという噂が広まった。私は戦況から推してそんな事はあり得ないと思ったし、第一地図に未測地と書き込まれた、この密林に覆われた重畳たる山嶺を越すのは不可能だと判断した。それに私は秘かに期する所があったのである。と云うのは口に出して云えなかったが、状況から判断して秋には日本が降伏するものと確信していた。だからとにかく秋まで生き抜けば何とかなると思っていたので気持ちは楽であった。しかし軍部は“一億玉砕”を叫んでいたし、歴戦の准尉には日本の降伏など想像も出来なかったのだろう。東海岸を目指して奥へ奥へ移動して行く集団を見ながら一向に動こうとしない私の事を“座して死を待つ無能な指揮官”と言ってイライラしていた。或る時私に聞こえる様に「座して死を待つ・・・・か!!」と言ったので「行きたけりゃ行けよ」と云ってやった。すると彼がサッと気色ばんだのを私は感じた。やがて東海岸を目指した連中がごく少数だが、フラフラになって帰って来た。彼等の話によると路々には飢えと疲労で倒れた将兵が塁々と転がり、尚悪い事に、僅かに持っているかもしれない食糧を狙って友軍が撃って来るという事だった。これを聞いても准尉は、前途に希望もなく日々が過ぎて行くのに耐えられない様でイライラが昂じて行くのが感じられた。
そんな或る日、部下のA軍曹が彼に胸を拳銃で撃たれて死んだ。彼はピストルの暴発だと云っていたが平素の二人の関係から考えて私はA軍曹がやられたなと感じた。第一目撃者が一人もいない。或いはいても後難を恐れて口にしなかったのだろう。ところで正確にはA軍曹は数日間生きていたのである。その間准尉は彼に付ききりで看病した。私が見舞いに行った時も枕元に座っていて、私に「絶対安静、絶対安静」と云ってAと話をさせなかった。A軍曹のジッと見上げた物悲しい眼が今もまぶたに浮かぶのである。その帰りに私は背筋に何か冷たいものを感じた。それから私は彼と二人だけにならない様に、又彼が近くにいるときは絶えずその動作に警戒する様になった。しかしこんなことを相手も又感付かない筈はない。この頃から彼は私と話をする時は何時も短剣で木の枝を、何を作るのでもなしに削っていた。『警戒しているな。然しヤツの事だから何をしでかすか判るものか。いや、もしかしたら挑発かも知れないぞ。いずれにしてもこのまま只では済むまい。よしそれなら・・・』こんな思いが毎日頭の中で渦巻いた。ここで断っておかなければならないが、大分以前からこの山中では命令も階級も無いに等しく、各自が勝手な行動をしていたのである。ただ散りじりにならなかったのは離れて行くのが心細かったからである。
ところで間もなく、全く不思議なことに一人の現地人の女性が通りかかった。ボロを纏っていたのでよく判らなかったが多分30代の様に思えた。呼び止めると彼女は必死になって弁明しだした。それによると戦禍を逃れて山へ逃げ込んでひそんでいたが、夫も死に子供も死んで途方に暮れているというのであった。するとあの准尉が親切にニッパハウスを作ってやり、何かと面倒をみ始めた。『何かたくらんでいるな』というより山を降りて現地人になりすますつもりだな、と直感した。案の定、十日程たった或る日、突然二人の姿が見えなくなったのである。私は全くせいせいした。しかし何故か誰も彼の噂をしなかった。生き残れる唯一の手段として多くの者が秘かに心に抱いている夢を彼が実行してしまった。その事に触れることによって自分の心の秘密をさらけ出すことを恐れたのではないだろうか。
そしてそれから2、3日経った時、顔見知りの兵隊が3つばかり山を越した所で准尉が頭を撃たれて死んでいたと知らせてくれた。「ポケットにこれがありました」と云って差し出したのはまぎれもない彼の印鑑であった。だがその場所は、私の考えていた平野への道ではなく、何故か東海岸へ向かう道筋であった・・・・・
(第3号 昭和五十二年・1977年 三月二十日発行)