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【連載】それでもぼくは物語る#11 第1章⑨

物語ることと発達過程

内田伸子『想像力』(春秋社)によれば、物語の受け手から語り手への成長は、子ども一人だけで達成できるものではないという。内田は、「子どもは大人とのおしゃべりに参加し、絵本を読み聞かされ、物語を語り聞かされるうちに、そこで用いられた語りの形式が、しだいに内面化されていきます」(p.103-104)と述べている。

われわれは、成長につれて勝手に物語ることができるようになるのではない。大人とのコミュニケーションを通じて語り方を身につけ、さらに友人たちとの間で互いに語り合うことで、実践の方法を少しずつ獲得していくのだ。

内田は、数々の先行研究や自身の研究成果を参照しつつ、子どもがどのように物語る力を獲得していくのかを明らかにしようとしている。本書によれば、物語ることには「行為や情動の冷却機能」があるという。

 物語、特に、架空の出来事を組み込んだファンタジーは現実とかけ離れた別世界に子どもを誘うものではありません。現実には実現していないことを想像の世界で実現する術を模索する、建設的な認識の営みであり、子どものその時点での経験を整理する枠組みを与えてくれるものなのではないでしょうか。
(中略)
 さらに、物語は子どもの発達においてたんに経験を体制化したり知識を伝達するだけのものではありません。物語世界に触れることを通して、子どもは現実の知覚世界を超え、もう一つの世界、虚構の世界を知ることになります。虚構世界を虚構(ウソッコ)として理解し、また自分自身でも虚構性を構成するための枠組みや文章構造を内面化して想像世界を表現することができるようになるのです。子どもは、想像世界を創り出す営みの過程で、その発想は自由に飛翔し、既成概念を乗り越える力、すなわち創造力を手に入れることになるのでしょう。

(内田伸子『想像力』春秋社p.102-103)

つまり、子どもは物語ることによって冷静に「その時点での経験の整理」を行う。さらには物語ることを通じて、虚構を生み出し、「既成概念を乗り越える力」を得るという。

卑近な例だが、私にはふたりの娘がいる。長女は3歳になったあたりから、保育園での出来事やYouTubeで見た動画のあらすじなどを、積極的に親に語ってくれるようになった。当時はただその姿を微笑ましく見ていたのだが、あれは彼女なりの、「経験の整理」だったのだろうか。当時はよく「ノンタン」の絵本を読み聞かせていたが、時にはその内容を暗唱することもあった。あれも、「物語る」という所作を自分のものにする過程だったのかもしれない。

5歳にもなると、現実に起こったこととは無関係な作り話を語るようになった。長女はブロック遊びが好きなのだが、一緒に遊ぶ大人に役を割り振って、「この子はここのゲームで遊んでるの」「こっちの子は車で来て」などと指示をするようになった。そうして、ブロックを通じて彼女が作った物語を表現するようになったのである。その時期になると、「おしりたんてい」や「プリキュア」といったアニメ作品に熱中し、かなり細かいところまでストーリーを理解するようになった。物語の楽しみ方が、だんだん身についてきたのだ。

ぼくが初めて物語らしきものを作ったのも、5歳の時だったと聞いている。母いわく、5歳の時に初めて紙芝居を作ったらしい。これはなんのきっかけもなく作りはじめたわけではなく、その頃はよく近所の図書館で紙芝居を聞いていたのだという。その経験から物語る方法をなんとなく習得し、自分なりに応用してみた、というのが実態ではないか。

物語る力が人間にとって「先天的」か「後天的」か、はっきりと断じることはできない。ただ、物語る作法を身につけるうえで、親しい大人とのコミュニケーションや周囲の環境が影響することはたしかなようだ。

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