下戸が酔わずに過ごすには
私は酒に弱い。
家系的に見て酒に強かった人はいない。
社会人になって10年以上、酒の場で酩酊せずに終わりを迎えられたことが一度もない。一度はトイレで清算しなければ帰れない。
それなのに飲む。飲まずにいられない。
別に「酒が進んでいないぞ」「もっと飲めよ」と周りから進められるわけでもないのに、飲む。
グラス一杯で顔が赤く変わる体質のおかげで早めの時間から心配されるにもかかわらず、
「顔だけ赤くなるんで大丈夫ですよ~」
とかいって心配をはねつけるように飲んでしまう。そしてダウン。
サービス精神なのだろうか。
空気に乗せられて、なりたい自分=誰とも分け隔てなくちょっと言いにくいことも気軽な雰囲気で言ってしまえるキャラ、になりたい(なったと思いたい)からなのだろうか。弱い、弱すぎる。
勢いでつっきってしまうので詳細は分からないのだが、どうにもこれがやめられない。
最近は一人で飲むことも増えた。
周りからは「ストレスがたまってるから~」「気晴らしにはよいのでは~」など好き勝手言われる。
そんな言説にまたのっかって、飲酒量は増える一方である。別に誰も見ていないのに、責任ある立場なのだからこれくらい飲んでもいいだろう、飲むのも当然だろう、と解説する自分がいる。
アルコール中毒だと診断されるような酒量ではないから、健康上も心配いらいない。健康診断も良好。
ただ、仕事をしていない時間、頭のどこかで「(仕事から)逃げている」と感じる自分を麻痺させるうえでは必要不可欠な存在になっている。
それがこの先何年続くのか少し不安ではある。
と、不安の種を言い連ねたいがために書き始めたのではなかった。
大事なのは、それだけ飲む癖がついて気付いた、酔わないときの共通点である。
語り合う。本音っぽい感じで。
これである。思っていることを何らか口にする。理路整然としていようがしていまいがそれはどうでもいい。
自分なりの理屈で自分がどう思っているか語れる時、体にアルコールがたまらない。うまくアルコールを受け流せる。
飲むだけで終われば体へのダメージは小さい。が、m往々にして消化不良を起こしそうな脂っこいものや〆のスイーツが会食にはついてくる。胃に大きな負担を与える。
呑みの席の洋食の最後にティラミスを食べて後悔しなかったことがない。
誰と会食するかが大事なのか?と思っていた時期もあったが、相手が同じでも酔いつぶれるときとそうでないときがあることに気づき、結論
自分が話せていたかどうか
が大事なのだと知った。
下戸の人には声を大事にして言いたい。酒に弱いなら声は大きくあれ。
体の巡りを自分で作り出せているかどうか、そのあたり研究した論文の一つや二つありそうなものだが、裏を取っているわけではない。これも酔った勢いで書いている文章。
思えば会食なんて普段職場や公的な場では話せないことを話すために設けられた場である。その場で考えていたことや用意していたことを口に出せずに終わるならそもそもの潜在的精神的ダメージが大きいのは当然だろう。
本音っぽい感じ、と書いたのは、当人話しているときにそれが本音かどうか定かでないことも多いからである。
気持ちよく話せる関係で、気持ちよく話せる環境であれば、内容はそこまで大事ではない。
なんだか内容がありそうで無い、いや意外にあるのでは?という微妙な文章になってしまった。
ただビール3缶をあけながらこれを書いている私が一向に気持ち悪くならないから、これくらいの距離感で飲み会に臨めば不幸に終わることはないよ、となんとなく自信をもって書いているのも事実である。
寺も何も関係ないが、べつにそれでもいいのである。