島暮らしで育まれた、小さな反骨精神と大きな違い
そんな山での生活を続けていたが、大きくなるにつれて、"周りとの違い"に敏感になるようになった。生活にしかり、食事にしかり、親の職業にしかり。(前編から続いています。)
小学校中学年の時に、山奥から瀬戸内海にある小さな島の、誰も住んでいなかった父の実家の古民家に移り住んだ。父が玄関の土間に薪ストーブを据え、煙突を通すために土壁に穴を開けた。その自由さと空いた穴から庭を見通して、暮らしは自分たちの手で作れるし、それが楽しいことだと実感した。
島は美しかった。
いつも目に入る青と緑のコントラスト、潮風が運んでくる空気は澄んでいて、街灯も少なく、夜は静かで近くの海から波の音だけが聞こえる。
コンビニも信号もない。お店も一軒のスーパーと、あとは農協や郵便局がちらほら。
父の畑を手伝いながら、妹とカニを捕まえてそれでタコを釣ったり、笹舟を作って畑の中の水路で転覆させないように棒でつっつきながら速さを競って遊んだりしていた。
砂浜にみんなで走っていき、飼い犬を放って一緒にまた走る。夕陽が美しくて毎日感動した。
父は島で念願叶って自然農の野菜づくりを始めた。当時はあまり分からなかったが、試行錯誤の繰り返しだったようだ。
母は、いろいろな仕事を掛け持ち、最終的に自分の食堂を開いた。父が育てた美味しい野菜を、できるだけ素材の味を生かして届けたい、そんな想いがこもったランチのお皿には、太っ腹すぎるくらいたっぷりの野菜たちと共に、いつもそれ以上の愛情が載っていた。
悲しいかな、私自身は転校してからはあまりいい思い出がない。島の子たちは人数が少ない上に仲間意識が強く、私はその輪にうまく馴染めなかった。
正直言ってうちには、他の家ほどお金に余裕がなかった。服はいつもお古を着まわして、母が合成洗剤を使わないために心なしか白いはずの給食着も黄ばんでいた。うちの家族が古い家に住んでいること、あまりお金がないこと、みんなの親と同じようなやり方で農業をしないこと、本当はアレルギーでもないのに給食を食べず毎日母が持たせてくれたお弁当だったこと、彼らにとっては珍しかったんだろう。
そして私自身がませていて、その頃から"幸せとは何か"を考えているような小学生だった。
小さい頃から本を読むことを通して自己形成されて、自分の強みを聞かれたら"想像力"と言っていた。正岡子規に憧れ、よく俳句や短歌を作って遊んでいた。
家に古い足踏みミシンがあったから裁縫もできるようになり、自分の服からバックまで一通りのものは作ってみた。でも、小さなフリーマーケットなどで出品しだしてから、"ひとつ作ればいくら"が頭に浮かぶようになって、純粋に楽しめなくなった。
小学校5年生の時に、こんまりさんの"人生がときめく片付けの魔法"という本に出会った。面白すぎて小学校の中で持ち歩いて読んでいたら、年上の子に笑われた。
でもこれは本当に、私の短い人生を揺るがせるレベルの本だった。うちの家が汚いのは、モノが多すぎるからだ!と思い、勝手に家の中を断捨離しまくって両親に怒られた。
自分の部屋が欲しくて欲しくて、和室の一角に端切れの布で仕切りをして籠ったり、自分の洗濯物だけを綺麗に小さく畳んで収納したり、持ち物を厳選して"ときめく空間"を作ることに全力を注いだりしているような、まあ、変な子供だった。
話は戻るが、島の子たちの輪に無理に馴染むくらいなら1人でいようと選択をした。
口下手で、こういう時にはこう喋ればいい、が分からなかった。素直すぎるが故に言葉選びと言う順序も下手だったから、相手の気持ちを逆撫でするようなこともしばしば言ってしまう。相手から受けた悲しい気持ち、悔しい気持ち、本当はこう言いたいという自分の想いが胸まで上がってきているのに、うまく言葉で伝えられず当時は苦しかった。
その頃、父は私の天敵で、なぜか何を言っても三姉妹の真ん中の私だけが理不尽に怒られる。歯向かってみたり家を飛び出してみたり、色々やってみたが、学校でも家でも気持ちを外に出せないフラストレーションが溜まって、結局内に内に籠っていた。
小さい頃から負けず嫌いな子供だった。
中学で走ることと本格的に出会い、駅伝やレースに向けてひたすらに走っていた。走ることは結局、個人戦だ。やっと誰にも何も言われず私を表現できる!努力して手に入れた速さに誰も文句はつけられない!その開放感に心躍らせた。
その頃はただの"勝ち負け"にフォーカスしていたかもしれないが、後々、"走ること"は私にとって大きな影響を与える。
ここまで、田舎暮らしと自己形成について話してきましたが、次はいよいよ、"建築"との出会いについて...。
全ては、今伝えたい、私の思考に続いていきます。
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