変遷するということ。
こんばんは、焼却炉です。お布団を干すとなぜか決まってその日の夕方から猛烈な睡魔に襲われます。今日はちらりと見かけた言葉が魚の小骨が喉に刺さったかのように引っかかっておりますので、言語化してすっきりしたいと思います。
※個人的見解が多分に含まれておりますのでご注意ください。
不適合者ということ。
「社会不適合者」という言葉が目に入るようになってきた。今日カラオケで歌った曲の中にも「社会不適合者に落ちろ」という歌詞があった。ここで疑問なのは「社会不適合者」とは一体全体なんなのだろう、ということだ。その基準は一体なんだろう。というか、社会ってどの社会を指しているんだろう。
調べてみると、人間の共同生活の総称、らしい。この人間の共同生活が一体どの範疇までを指すのかもまた曖昧である。
その日起きられなかった、夜にしか活動できない、人とうまく話せない、人の役に立てない、などなどそんな報告が巷では弾幕のように流れていく中で、だから不適合者なのだと、自分の心にぺったりとラベルを貼る人達がいる。まぁそれで心が元気になって、生き永らえられるのであればそれを止める必要はないなとは思う。ただ、あくまでも一つの集団に合わなかった、というだけで。自分の視点では目の前にいる人達があたかもすべてのように感じてしまうけれど、ゲームや本のように登場人物が限られているわけでもない現実世界において、一つのコミュニティと波長が合わなかったからと苛まれる必要はあまりないのだなぁ、と最近ぼんやり思うようになった。どの時間に生きていようと、どの場所に生きていようと、生きていられる場所があるのであればそれで良いのだと思う。こう考えていると太宰治の『ヴィヨンの妻』を思い出すがそれは話すと長くなりそうなので割愛する。
時代が移り変わるということ。
人間という存在が形作られてから、様々な時代を経て、現代にいたる中で、美の基準、地位の基準、価値の基準、あらゆる基準はいつもブレブレである。一重で色白、黒髪で頬がふっくらとした、そんな美人がもてはやされていた平安時代の美の基準を満たす人は現代にどれくらい存在しているだろうか。そう考えると、基準に適合するかどうかなんてそんなもんなのだ。適合するかより、今、自分がその場にいて呼吸がしやすいかどうか、の方が何億倍も大事なんだと思う。朝だろうと昼だろうと夜だろうと、人間の営みの中で頑張って動いている人達はそれだけで十分だろうと思う。まぁ、人間というのは生来強欲な生き物であることがほとんであろうと思うから、より多くのものを求めてしまうけれど、他人にも、そして自分にもそんなに多くを求める必要も、期待する必要もあまりなく。所詮人生他人事であるからして、自分の手中に収まる範囲のものだけを、まずは大切にすればよいのだと思う。未来ある子供達には大きな夢を持ってほしいと思うが、二十歳を過ぎた只人はもうピーターパンではいられないし、おとぎの国には行けない。夢だけを見ていい生活は終了なのである。刻一刻と迫る終わりに向けて、夢なんていう曖昧なものをどうにか目標だとか、そういった型にはめて着実に実現していくのである。しいて言うならば、そうやって「夢」という妖精を忠実に模した「目標」というロボットを作れる人間が、社会適合者ということなのだろうと思う。