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孤独を楽しむ暮らし🌱#8
「いただきます」に込められた意味
普段何気なく使っている挨拶。
「おはよう」はもともとは、「お早いお着きですね」という意味で、「こんばんは」や「こんにちは」は、「今晩は月が綺麗ですね」「今日は寒いですね」という相手を思いやる言葉が後ろに続き、ねぎらう言葉だったそうです。
「いただきます」と「ごちそうさまでした」に込められた意味を考えてみたいと思います。私たちは、肉や魚、野菜、果物、お菓子といった、さまざまなものを食べています。普段は意識しませんが、スーパーに売られているお肉などは、もともとは生きていた牛や豚、鶏の肉です。今では肉を食べるということについて、問題を呈する動きもあるようです。私たちの食文化は、たくさんの動物の肉を消費しているのは事実です。それだけではなく、果物やお菓子が私たちの手元に届くまでには、原産国の抱えるさまざまな問題があるのです。
例えば、一年中絶えることなく売られているバナナは、消費者の心をつかむべく様ざまにブランド化されて売られています。そうしたたくさんの品揃えのなかに「高地栽培」として売られているバナナがあります。値段は低地栽培バナナより少し高いです。高地栽培バナナとは、その名の通り標高が高い山腹のバナナのことです。
バナナは、昼夜の寒暖の差が大きい場所では、糖となるでんぷんを多く蓄積します。それゆえに、低地栽培バナナよりも甘いバナナとなるのです。しかし、輸出用バナナ生産地の高地進出は、2011年から始まった農薬散布により、深刻な問題を抱えています。小型飛行機から散布される農薬が風に乗って、バナナ園に隣接する民家や通学路に降りそそぐそうです。空中散布が始まってから、家庭菜園の野菜が枯れたり、家畜が死んだり、目の疾患や皮膚のかゆみなどの被害が生じているのです。バナナ生産地での農薬禍は、少なくとも過去40年間続いています。それが低地から高地に広がっているのです。
また、人気のお菓子であるチョコレートの原料はカカオ豆です。世界のカカオ生産の約7割を占める西アフリカ地域では、子どもたちが学校に行けず、収穫したカカオの実の運搬を行います。西アフリカのカカオ生産地域は、家族単位の農家がほとんどで、子どもは重要な労働力とされているようです。
児童労働が起こる背景には、カカオ農家が得られる収入が低いという問題があります。カカオ農家の約3分の2は、人が人間らしい生活ができる生活所得の水準に満たない経済状況にいるといわれています。この現状は、世界銀行が定める国際貧困ライン(一日一人2.15ドル)より低く、多くのカカオ農家が極度の貧困状態に置かれているのです。
バナナの件もそうですが、これらはほんの一例で、実際のところ私たちの食生活は、他国で起きている色々な問題の上に成り立っているのが実情です。
スーパーに行ってお金を出せば、なんでも手軽に手に入る生活で、こういった問題を考える機会はほとんどありません。ですが、私たち人間はたくさんの動物たちの生命をいただいて生きています。
生きるということは、綺麗事ではなく、これは“人間の業“ともいえます。
さらに、バナナやチョコレートのように、原産国の抱える実情もあります。食べるときに「いただきます」というのは、「生命をいただきます」ということで、食べたあとの「ごちそうさまでした」は、感謝の意味です。
普段何気なく使っているこれらの言葉に込められた意味を考えるとき、多くの生命をいただいて生きている人間の私たちはどう生きるべきか。
第7回未来屋えほん大賞を受賞した「もうじきたべられるぼく」という食育の絵本が話題になっています。もうじきたべられるという運命を受け入れた子牛が、最後にお母さんに会いたいと牧場を脱走して、生まれた牧場へ向かいます。遠くからお母さん牛が子牛たちと遊んでいるのを見て、自分がここに現れたらお母さん悲しむかなと、そのまま立ち去り電車で帰ります。子牛は最後に「ありがとうお母さん、ありがとう太陽」とつぶやくのです。ほのぼのとした絵柄で、静かに言葉がつづられています。
読者からは、「生きる勇気をくれた」「いのちをたいせつにしようと思った」など大反響で、重版の新聞広告が出ていました。ほんとに泣ける内容ですが、これが人間が生きるという現実です。人間はたくさんの生命に繋がれて、生きさせてもらっているのです。私たちに出来ることは、感謝してその生命を繋いでいくこと。感謝して精一杯生きることではないでしょうか。
生きていると、いいことも悪いことも起きます。辛いことが多いかもしれません。でも、自分が生きていられるのは、たくさんの生命のリレーによるものだと、ほんの少しでも思いを馳せるとき、「いただきます」「ごちそうさまでした」と感謝の気持ちが生まれてきます。
お肉に限らず、バナナやカカオのような生産国を取り巻く問題についても、目を向けることは大事なことだと思います。
日本では禁止されている児童労働が原産国では行われていますが、それは農家の人々が生きていくために必要なほど困窮しているという現実。私たちは、その恩恵にあずかって生活していることも現実です。食事をするとき、目の前にある食べ物について思いを馳せることが、今の「当たり前」への感謝につながるのかもしれません。
60歳になって、四十肩?五十肩?になり、左腕が上がらなくなってしまいました。いわゆる更年期障害の一つですね。まわりでは、けっこう早いうちから、火照りや冷えなどの更年期障害に悩まされている知人も多く、わたしは何一つそういった症状がないので、珍しがられていました。が、ここにきての肩の痛み。利き腕でなくて良かったのですが、服を着替えたり、ものを取ろうとした時に痛みが走り、日常生活に支障が出てきました。ある日、かかりつけの病院に行った際にこのことを話すと、先生から500mlのペットボトルに水を入れたものを手に持ち、それを前後にゆっくり振ってみる。というのを教わりました。
痛くない範囲で毎日少しずつやっていたら、ほんとにだんだんと変わっていきました。腕を伸ばしてどれくらい上がるかとやっていたら、右腕の半分くらいしか上がらなかった左腕が、少しずつ少しずつ上がるようになり、2ヶ月過ぎくらいで、ほぼ全快しました。
ネットで四十肩のマッサージを調べたら、一回の施術で5000円くらいでしたが、先生の言うとおりにペットボトルを振っていたら、1円もかからず治ったのです。信じてやってみるもんですね。それからは、朝起きたときに、ベッドの中で両手両足を伸ばして、ベッドから降りてゆっくり伸ばすことをやるようにしています。ちゃんと動いてくれる身体にありがたいなぁと感謝して、今日もよろしくねと、スリスリさすって一日をスタートします。
自分のなかにある治る力を信じることで、からだはそれに応えてくれるのかもしれません。不自由なく生活ができて、美味しくご飯をいただくことができる。人は、病気だったり、不足を感じる何かが起きたときなど、「当たり前」を失ったときに初めてそのありがたさに気づきます。胸のなかにポッと灯る小さな灯りに気づけたとき、それが幸福なのだと思います。