中野クロマトグラフィー
【中野クロマトグラフィー(2019.06.17)】
浮世は多様性。
薄汚い公正と気高い不平等とが行き交う二十一世紀に、僕らは生まれた。
ルッキズムなんて今風の言葉を使うに値しないほどに狭い狭い社会で、僕は特段強いも強いられもせずにのらりくらりと生きていた。
何事も中の上くらいが一番得をして生きていけるものだ。変に奇をてらって多様性の枠組み一杯に手足伸ばして生きようとしても、結局は出る杭は打たれるだけなのであって、美的感覚だとか第六感だとかそういうものは宗教家ないしアイドルにでも任せておくのが得策だ。
とはいえ、それを知ったのはずいぶんと最近のことであったから、僕もずいぶんと損ばかりして生きてきた。
自分の持つ信念のようなものを買い被るあまり、それが絶対的なものと勘違いしていたのだと思う。
僕に信念があるのならあなたにも彼にも彼女にもそれがあるのであって、それを傷つけにかかろうものなら後ろ手で刺されてバッドエンド。
うつくしいものがすきだった。
ずっとずっとずっと。
僕は先生になりたかった。
別に君のためとかじゃなくてね。
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夜の二十時三十三分。
すっかり温くなったヴォルビック片手に、中野仕立ての電車に滑り込む。
都会の自販機は高い。この水一本で120円もした。
ぬめりと生暖かい風が僕と一緒に駆け込んできて、エアコンの冷風に殺された。今日は暑い。どこかのだれかが自殺でもしそうな日だ。どこのだれとはいわないけれど。知らないけれど。
僕の手の甲には根性焼きの痕がある。
それに気づいた人は今まで一人もいなかったけれど、もしもこれがなにかと問われたときには地元の先輩に喧嘩を売って負った傷だと言い張ると決めている。それがかっこいいと思わせてくれ。
さて、次の駅では仕事を終えた人々がなだれ込んできた。
やれなんちゃらは世界を救うなどと言いつつも電車の席など奪われてこその代物で、僕のとなりにも見知らぬ女性がするりと身を捩じ込んでくる。
体を端に詰めながら、僕はふと思い出した。
君とのデートでもよく、都心の満員電車を使って移動した。
今時車なんてお互い持っていないのが普通だ。
目の前の席がひとつだけ空いたら遠慮する君を無理やり座らせて、頭を撫でて「どこそこで降りるからね」なんて声をかけてやるのが申し訳程度の、それでいて精一杯のエスコートだった。
君は見かけによらず律儀な子で、「じゃあじゃあ、次空いたら君が座ってね」なんて僕を見上げて言うのだけれど、出会ってから別れるまでついに「次」なんて機会は訪れなかった。何度だって僕は君を無理やり席に落ち着けた。
隣が空いたときにここぞとばかりに君が手をとって隣へと引き込んでくるしあわせな一瞬が好きで好きでしかたがなかったからというだけではなかった。
それが僕のささいな信念であったし、デートのために色々苦労を重ねて時間の何分も前にやってくる君を差し置いて僕が楽をするなんて考えられなかった。フェミニストが聞いたらきっと呆れるだろうが。
その代わりといってはなんだが、彼女は決して僕に奢られてはくれなかったし、常に同じ立場で接してこようとした。
それが決定的な別れの理由だったかもしれない。僕は君に特別であってほしかった。一番であってほしかったのだ。べつに互いの理解や和解なんて必要なかったのだけれど。
僕は先生になるはずだと思っていたけれど、君は僕を先生だと思いたくはなかった。それだけだった。
僕はまだ君が好きだ。
中央線に飛び込んだだかどこかしらのビルから飛び降りただかの報せを受け取ってから幾年、もう君がいないのだということが心底信用できずにいる。
まだ駅前のセブンイレブンの前でココア片手にしゃがみこんだ君と目が合いそうになるし、ふと手が触れてそのまま握り込みそうになるし、車道よりを歩きそうになるし、ふらふら、ふらふら。
そしてそのまま、鞄を忘れてホームに降り立った。
いや、わざと置いていったという方が正しいかもしれない。
投げ出したかったのだ。
君のかわりに大事なものを。先生になれなかった僕のかばんには大事なものがたくさん詰まっている。
明日は上司の怒号に落ち込む日にしよう。
そしてやけくそで退職願いを叩きつけて、きっと向こうもやけくそで受け取って、誰も幸せにならないまま僕は君に愛してるって叫ぶんだよ。
それでいいんだ。誰も幸せになんてならなくていい。愛したままおしまいにできるのなら、僕のひとり勝ちだから。
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