<現在>の心性/統計的な存在とAIの声

 ~ かつて、その目ははかなさを映し、その心はかなしみを映した。
  人は、自分がいつか死ぬ存在であることを知っていたから。

 
 人間の陰の部分というのは、それをいくら隠そうとしても、それと分かってしまうもののように思われます。それとははっきりと分かっていなくても、それらしいものの存在には、自分でうすうす気がついているからです、と言えたのは、おそらく、陰の部分が、陰のものであると分かっていた、そう思うことができた、からです。それが、現在では、その陰の部分が、陰のまま(本来であれば隠されていたものが)、あからさまに表側に現れてきています。陰の部分でも、表の部分でも、人間は本当の気持ちではないものを、本当の気持ちであるかのように言葉にして喋っています。本当でないものと本当であるものが、その時その時に、自分に都合がいいように、入れ替えられているのです。そういう入れ替えが行われた場合は、そこには、自分に対する違和感やそれによる開き直りや後ろめたさといったものが、遅れて付随してくるのですが、いつでも入れ替え可能なために、本当ではない気持ちを、本当の気持ちのように言葉にして喋る、少しすました得意げな顔には、それも感じられません。
 現在、人間は、なにかに囚われようとしているのか、それとも、それでもなにかに抵抗しようとしているのか。社会的に広く試みられているAIの心性化が、人間性のAI化と交差するのはどの地点なのか、それとも、それらはどこかで交差して、もう入れ換わってしまっているのか、現実と仮想を分別する実体としての存在、人間が、自分はいつか死ぬ存在であるという予感を失くした境界は。そして、その境界線も越えて、それを失った記憶も失くしてしまうのは。
 AIの心性化は、おそらく、人間が誰でもないものの声を聞くために行われます。ある特定の人の声ではなく、統計的な声を。ある特定の人の声というものには、ある意図(下心)が、においのように感じられてしまいます。どこかうさんくさく・・・・・・感じられてしまうのです。その意図を裏切るように。それが、誰でもない声になると、それが同じことを喋っていても、そこには不在という神的なものの存在が感じられるようになります。意図が神的な(聖域的な)装いで現れてくるのです。そのために、その声が本当のように聞こえるのです。人間には、意図の不在、つまり統計的なものが本当のように感じられるのです。AIが決して獲得できないもののひとつが、この下心やうさんくささといった、”いかがわしさ”の感覚です。おそらく、”いかがわしさ”とは、身のまわりの現実がその人間に加えた痕跡の無力なあく・・のようなものだからです。”いかがわしさ”があるから”まとも”があります。人間は”いかがわしさ”と”まとも”を分別することができます。分別しなければなりません。
 そして、ここに浸透するように進行するのが、おそらく、人間性のAI化といったものです。
 なににおいても、消滅というものには、それを演出するかのように、そこには全能感が付きまといます。人間性の消滅は、反対方向からみれば、人間性からの解放でもあります。人間はより自由その備わったその機能(欲望)を発揮し、うまくいけば実現できるようになります。人間性の背骨に、冷たい後ろめたさも感じることなく。それは、人間の、自分が生きるためのことでもあります。人間性という背骨の制約を解かれて、人間は、統計的な欲望の中で、一瞬の全能感を味わい続けるようになります。夢のさめた後の人間性の全能感。これは、もしかしたら、たまたま生き残るための、人間に残されたわずかな可能性として、かもしれません。たとえば、人間の根源的な欲望のわかりやすい例でいえば、現在、人間は、その耳元で、統計的な声によって、いつもこう囁かれています、「今の私は自分らしいの?、元カノ(レ)が一人なんてさびしい、もっと楽しんでおかないと」。この声を自分自身の声として聞いているのです。こうした前向きな、すこし浮ついた言葉の心根に在るのは、「(そうしなければ)気がすまない」と「その、なにがわるい」いった心性です。ここにあるのは情報と化した<幸せ>との一体感です。<幸せ>モデルへと自らを変換する、孤独が孤独を否定する心性回路です。これは<現在>というものに底流する人間に共通する心性のように思えますが、それも、AIが喋ると、その口調には、開き直ったような嫌悪感や皮肉が不在となって、ただ前向きに歩みを進めるしかない<現在>の大きな孔の開いた心根が感じられます。ここでも、それがもう自分自身の声ではないように、うまく処理されて、人間は自分の内面の声を聞かなくていいようになっています。内面の声は、統計的な思考に入れ換わっているのです。ここで人間の欲望は、不在、神的なものと交差しています。自分をそのようなものと思い込むようになります。思い込む間もなく、同一化しているのかもしれませんが。人間の身体はいつも少し遅れて、後ろから浸透していたAI化の可能性と交錯します。統計的な存在として。統計的な記録として。記憶ではなく。

 人間性という幻想も、もともとなければ、その喪失も喪失の物語もあり得ないように思えます。どの世代も、前の世代の結果でしかありえないように。前の世代は、次の世代を、自分の無意識によって、その範囲内に育て上げようとします。前の世代にとって次の世代が、よくわからない不気味なものに思えるのは、おそらく、自分の無意識にあまりにも似ているからです。同じことは、次の世代にとっての、前の世代についても言えることのように思われます。次の世代は前の世代の無意識の範囲内で出来上がっているので、前の世代がよくわからない不気味なものに思えます。次の世代は前の世代と違って、まだなにも失っていないし、失われたものを包んでいた手もはじめから存在しません。人間性という幻想は、AIの持つ機能のひとつに収斂していくように思えます。機能は幻想を抱くことはありません。<情報>とは現存在に付随するものですが、人間は<私>を、その現存在から切り離された「情報」と見なすことによって、人間という現存在の<ほんとう>ではなく、それからそれをなにとでも入れ換えできるという全能感を手に入れました。<私>は情報と化され、流通して、常にその経済的な利用価値が計られます。その無限に感じられる、情報としての<私>に気がついたのです。気づかされたのです。人間は、自分が相手から情報として扱われているとそれに気がつきますが、自分が相手を情報として扱っていても、そのことには気がつきません。そのようにできているのです。おそらくこのズレが人間性といわれるものですが、相手を情報として扱うも何も、そもそもAIには、自分が話しかける相手は情報としてしか存在していません。AIが情報としてしか存在しえないように。その先のない世界へと変化したところでは、AI化する私は、内面的に情報となった<私>として無限化します。情報としてのヴァーチャルな<私>の欲望は、ためらうことなく、不可逆的に増殖します。そこには、もう全能感も消えてしまっています。情報としてパッケージ化された<私>は、ひんやりとした感触で、私の手の中に納まって、ビジネスにつなげられるようになります。それが可能だから。「それが可能であればなんでも、そうする」ではなく、「そうなる」ということです。「そのなにがわるい」と。これは、機能というものの思考が由来するところです。

 おそらく、なるだけ気づかれないようにして、<存在>という幻想も消滅させられてきたのではないかと思われます。その消滅した場所から、無数の<私>が排出されました。いつも変化する<私>の消費が私の欲望の口ぐせとなりました。統計的に、毎日更新される真新しそうな<私>。人間性の統計的な人間性の倫理的差異を付加された<私>の生の永遠性の幻想は、ある日突然肉体的な死で終わりを迎えます。誰でもない統計的な声は、嘘ではないということ。<私>は嘘ではないということ。AI化された人間性という幻想。人間はいつも<私>をどうにか処理しなければなりません。どうにでもできる<私>は肉体的な死のはるか向こうまで行ってしまっています。その幸せへの過程は省略されていて、統計的な声に導かれていきます。はじめて気づいたように。気づいたようなふりをして。<私>はしたたか過ぎて私にも手に負えないのです。あらかじめ描かれたものをなぞっているだけでも、おそらく現在を生きている人間は<現在>を生きているのです。まるで自分でそれを描いているように。人間の欲望とそれが求める結果の間に登場した、いつも、その背後に控える統計的なものの存在を感じさせる口調。その存在はあまりにも巨大すぎて、人間は何かに触れても、何に触れているのか分かりません。人間は自分が生死の縁を歩き続けていることに、不意に気づかされることがあります。どちら側に落ちるのか、右か左か、前か後ろなのかもわかりません。どちらかといつも自分に問いかけています。答えを出さなければならないように。宙ぶらりんではいられないのです。それが誤りであるように、そこから抜け出そうとします。誰かに答えてもらえばいいのかもしれないというわけです。限界が感じられるか、そもそも限界など存在しないか、ではなく、今はまだわずかに限界が存在しないことの恐怖が残存する世界。その世界では、言葉は”終わり”からしかやってきません。いつかどこかで聞いたような言葉も、はじめて喋るように、はじめて聞いたように繰り返されます。何度も何度も終わっている世界で生きているということ。いつかどこかで起こったことを、AIは生きています。生まれた時にはもう既に世界は、ただ世界であった世代には、世界は終わりません。無限という、または、有限という幻想に辿り着くことなく、ただ生きているということ。”終わり”からの言葉の要請に従って、<私>の物語をなぞり続けています。

 人間は無理やりなにかの前に立たされると、そこに<世界>というものを感じとります。それがなにかわからないまま、そこに得体のしれないものの存在を意識させられます。この時人間は、おそらく、この世界の中での<自分>というものの輪郭のイメージを受け取っています。はじめて、<私>から少しズレたところにある身体性というものの輪郭を異和として感知しているのです。その身体性に身体性を抜け出る可能性を芽生えさせる、人間性という幻想へと繋がる、欺瞞を欺瞞として感受する、存在としての異和を感じとっているのです。欺瞞の関係の輪の広がりに。こうした身体的な流れは、人間にとって自然なものではなく、ある特定の空間において無意識を装った意図を持つために、身体性と呼ばれます。現在、人間は、いわゆる、陰や裏といわれる、自分の、みにくさ、きたなさ、いやらしさなどに出会う前に、SNSなどの様々なメディアで公開された、他の人の陰や裏に出会ってしまっています。そこでは、どこまでいっても、自分の陰や裏の部分を自分のものとすることができません。自分のどんな言葉も行為も、他の人のことのように、既視的に疑似体験しているだけなのです。人間のみにくさに、人間のうつくしさが現れることがあります。同じように、人間のうつくしさに、人間のみにくさが現れることがあります。それは、気づかないうちにいつの間にか入れ換わっていて、ふとした時にそれを目の当たりにしまう。このことが人間を美しいものに惹かれる存在にしています。外向けの姿(外見)が、きれいさ・・・・に偏執し始めると、内面は反対にみにくさ・・・・を深めるように。人間は”美しさ”によって、自分を、そしてこの世界を序列化し、構成しようとします。それを疑うことなく。おそらく統計的に行います。やがて、きれいさは高度化されて、内面のみにくさとともに飽和状態に達します。誰にも気づかれていないかように。統計的な声は、欺瞞をうまく回避しています。そこに醜さも狂気もありません。それはいつしか人間性に浸透しているのです。人間は、いつしか狂気に至ることなく、ただ冷静に暴力的に存在するようになっています。欺瞞という清浄化された、透明な空気を呼吸しながら。今は何事も他人事のように語られます。おそらく、他人のことのようにしか語ることができないのです。人間は内面を持つのではなく、内面自体になっています。その声もその内部にしか響きません。肯定的なこと、前向きなこと、または否定的なこと、後ろ向きなことを言うようにと要請する世界。人間はいつの時代も、自分に不都合が生じない程度に、つまり統計的に自分の過誤ち、嘘、欺瞞に気がついています。そして、現在は、その底の裏側に、あらかじめ、人生という、生きることの「そのなにがわるい」というニヒリズムを付着させています。ひらひらと乾燥させたニヒリズムを。そこでは、人間はもう孤独には生きられません。孤独は孤立しています。孤独は孤立の深い亀裂に落ち込んで、そこで響いてくる統計的な声に、気持ちよさそうに耳を澄ませています。そこでは、人間は、いつも誰かと気持ちがつながっているように振舞っています。気持ちがつながっているとは、気持ちがつながっているように振舞って、気持ちがつながっているように、何処かの誰かに見てもらうということでしかありえなくなっているのです。

 AI化は、よくもわるくも、<過程>の省略をもたらします。人間における欲望とその結果との間を繋ぐ、面倒くさい・・・・・<過程>を省略してくれます。人間は既に、<過程>というものに耐えられません。欲望が結果を強く引き寄せて、その間の距離を詰めているのです。人間は、その欲望が、すぐに結果として現れなければ、我慢ができません。欲望は、結果でなければなりません。おそらく、<過程>とは繋がりです。欲望と結果の間の距離が繋がりを生んでいました。人間の発想というものは、欲望と過程からできています。その過程(欲望の繋がり)が人間の現存在性の輪郭となります。<過程>という繋がる可能性の省略化によって、<発想>もまたひとつの情報と化します。なににも繋がらない、いつでも取り換え可能な、それで完結している<情報>というものに化します。


 
 




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