経済学部からデザイナーになり、フリーランスになるまで。〜後編〜
こんにちは。
フリーのグラフィックデザイナー、シンです。
前回の記事に引き続き、「経済学部からデザイナーになり、フリーランスになるまで。」と題し、ぼくが実際に体験してきた就職・独立までのことを記事にまとめました。
本記事のイラストは、あゆみさんの「あゆレポ」に依頼をして描いて頂いたものです!
(↑あゆレポ後編の全貌。すごい!)
さてさて、前回の記事では、
経済学部の大学時代、就職相談の場でお笑い芸人を勧められてしまったわたくしです。
そこから持ち直していけるのか・・・どうなる未来!
それではお楽しみください。
1.デザインは人を笑顔にできる
就職課での一件を経て、もう就職とか無理なのでは?と思ったぼくは、しばらく迷走の期間を過ごしました。パソコンは好きだからSE職に申し込んでみたり、薬局の定員さんに申し込んでみたり、家具メーカー等々…
気づけば、もう大学四年生の夏です。(当時の就活は夏で決まる人が多く、秋に第二波があり、滑り込みの人がいて…という3段階でした)
行く先々で、周りの人と「何か違う」という違和感を覚えて、
改めてもう一度、自分に向いていることってなんだろう、と考え直しました。
やはり自分が頑張れるときは「人が笑顔になる」と思えるとき。
そしてこれまで、
それを体験してきたのは、絵を描いたり物を作ったりして、人に見せる瞬間でした。
【話がキレイすぎるので、補足します】
実のところ「ワッ」と盛り上がる瞬間さえあれば笑顔にならなくてもいいようです。究極、相手が困ること、嫌がることでも良かったというのが小さい頃からの性質でした。
ところが、笑顔になる・喜ぶときはお互いの後味もよく、みんなが幸せになれる。対して困ること・嫌がることは後味も悪く、相手の気持ちもマイナスになる・・・と気づいてから、今のような形になりました。
デザインという武器を使って「人を驚かせたい」
これがぼくの行動原理、デザインをガンバる源です。
そして良い方に驚かせれば、世のため、人のためにもなる、というのを理念としています。
どうやら、僕が社会に出るためには、「人が笑顔になる」瞬間のある仕事を見つけなければいけないようです。できれば働きたくないけど、そういうときなら頑張れるから。
そして、就職課の一件で発見した「自分の考えは変わっている」というマイナスポイントが、プラスになる場所へ行った方が、自分は幸せになれると考えました。
変わったアイデアが求められる仕事…🤔
例えば企画職。例えばデザイナー。
デザイナーといえば、小さい頃からウェブサイトを作っていた。バイトでチラシのイラストを描いてりもしていた。ひょっとしてウェブデザイナーになら、今からでもなれるかもしれない。
このように、「ふつうの就職ルート」が閉ざされて、究極の二択「無職 or 特殊な仕事」を突きつけられたぼくは、消去法で『デザイナー』という答えに辿り着きました。
2.バイトでもいいから働きたい
デザイナーといえば。
ぼくには5つ上の姉がいるのですが、姉は美大を卒業してデザイナーとして就職した先人です。
姉は小さい頃から絵が得意で、4年間美大で勉強をしてデザイナーになった。
かたや僕は、ゲームするか音楽ばっかりして過ごして、就職できないからと急にデザイナーになろうとしている。
その差は歴然すぎる。・・・ということを、ハッキリと感じていました。
■ そして面接へ・・・ ■
そんな姉に相談したところ、デザイナーは「ポートフォリオ」という作品集を持って面接に行くらしい、という情報を得ました。
早速、これまで作った趣味作品と、知人から頼まれて作ったwebサイトと、ありったけをかき集めて即席ポートフォリオを作り、WEBデザイナーのバイト求人への応募を始めました。
「いきなり正社員は無理だろうけど、バイトならいけるかも」という消極的な理由です。
いくつか面接をして頂きましたが、「即戦力じゃないと厳しい」と断られてしまいます。こちらも実力がないのは分かっており、無理を言っている自覚もありました。
面接の場を去った後に社員達に笑われてネタにされる、というみじめな思いをしたことも・・・。
そんなふうに、面接で笑われたあとで、反省しました。
「ちゃんとしたポートフォリオを持たないと、ぼくがデザインを仕事にすることは難しい」と。
ポートフォリオを作るためには作品が必要です。
それも、面接官が「フムなるほど」と納得するようなものです。
そこに必要なのは、圧倒的なクオリティとかそういうのじゃなく、きっと「正当な努力」が見える、独学でイビツな形じゃない「ちゃんとした作品群」なんじゃないか?と考えるようになりました。
さて、ちゃんとした作品群って、なんだ?
3.「その世界に飛び込んでみることだよ」
デザイナーになろうと決めたはいいものの、そこにたどり着くルートが見えなくなってしまったぼくです。
悶々としながらも時間は過ぎ、夏休みのシーズンに。
お金もなく実家ぐらしのぼくは、家で毎年恒例となっている「親戚の家への帰省」で富山県へと向かいました。
帰省が済み、帰り日。親戚のおじさんと廊下で出会したので、こっそり話をしました。大学を卒業しようとしているのに、就職できそうにないこと。デザインという狭い世界に進もうとしていること。
叔父さんは、言葉でぼくの背中を押してくれました。
「シンちゃん、きみには期待してるよ。
きみならきっと大丈夫だよ。」
「その世界にね、飛び込んでみる事だよ。」
この言葉は強く刺さりました。
これまで、裏技のような道が無いかと探していましたが、
とにかく飛び込まないと始まらない。
飛び込むために自分ができることは、なにか。
今のやり方では時間が過ぎて行ってしまうばかりです。どんな手を使ってでも就職をしたい。
そこで観念しました。ぼくは独学ではデザイナーになれない。
デザインの専門学校に通おう…と。
4.「ポートフォリオ」を作りにゆく
さて、それじゃあ行こう!
と決めて、ホイと行けるものではありません。それにはなかなかの学費がかかります。
東京へと帰ったぼくは、両親と話しました。
今のまま就職するのは出来なさそう。お金を貯めるために1〜2年バイトをする。お金が貯まったらデザイン専門学校へ行くと。
すると親からは、
そんな時間はもったいない。お金はなんとかする。今すぐ学校を探すようにと返答ともらいました。。
我ながら情けない限りでした。
中学・高校と学び、大学にも4年間通わせてもらったにも関わらず、就職ができない。。
就職するためには、さらにお金が必要で、そのお金を自分でまかなうこともできない。。
恥ずかしさと悔しさで、人生の底辺を更新しました。
ここまで落ちたら、もう怖いものが無くなります。ダメなものは、しょうがない。必ずや成果を出して、見返すしかない。
そうして翌年から、デザイン専門学校へ行くことにしました。
5.二十三歳、デザイン専門学校へ
大学を卒業してから専門学校に再入学すると何が起きるかといいますと、18歳の人たちと同級生になるということでもあります。
高校から専門学校に入学した彼・彼女らからしてみると、同級生が5歳年上のオジ…お兄さんということになります。
これは彼・彼女らにとっても、ショッキングな出来事だったことでしょう。
デザイナーになろうとバイトを探したり、悩んだりしている間に大学四年生が終わってしまい、次の一年が過ぎておりました。。大学五年生。。こちらも恥ポイントです。。
いまとなっては、そのときの経験から、年齢が下だからといって軽んじることは無くなりました。たとえ相手が5歳でも、「たしかにそうだ」と思ったら意見を受け止めることができます。年齢に対してとてもフラットな目線になりました。
一方で、学校では目的である「ポートフォリオ作り」のために、なにかにつけて「人や社会と関わるプロジェクト」に参加し、デザインを1つでも多くやろうと心に誓っていました。
課題だけでは自由度が高過ぎて、就職した時のデザインとは違う…と考えていたからです。そして「やりたいデザイン」があるわけでもないので、そのほうが頑張れるということもありました。
とにかく作りたい、けど作りたいものはない。だから、誰かの「作って欲しい」場所に行き、ベストを尽くす作戦です。
遅くからデザインを始めるのだから、人の倍はデザインしないと!と、密かに燃えていました。
「デザイナーになるには学校に通う必要がある」という意見ではなく、自分のケースでは「なるための情報が足りなすぎる」ために、それを得られる場所の選択肢が学校だった、という形です。
通ってみて得られたものは、ポートフォリオだけではなく、人間関係だったり、先生との出会いだったり、素晴らしい先輩方との出会いだったり。事前に想像していた以上の広がりが生まれました。
6.パッケージデザインとの出会い
ある日の授業で、進路が一変するような出来事がありました。
「尊敬するデザイナーさん」と出会ったことです。
そのデザイナーさんは、サントリーのカトウヨシオさんです。「なっちゃん」や「伊右衛門」、「BOSS」に「DAKARA」…たくさんのヒット商品を生み出したクリエイティブ・ディレクターの方。そのカトウヨシオさんの個展へ、授業で行きました。
それまでは、商品のことは知っていたけれども、作り手のことをあまり知りませんでした。個展の会場で、みんなでカトウヨシオさんにお話を聞いたりしたのですが、その雰囲気がとても柔らかい感じで。
「デザイナーってこんな柔らかい人もいるんだ!」という発見がありました。
それまではデザイン業界ってカリカリしてる人が多いというイメージがあって。バイトで面接に行ったところも忙しくしている印象で、自分に会うのか心配していたところです。
パッケージデザイン業界に行ったら、カトウヨシオさんのような柔らかい人がいるんじゃないか、と光が見えたような気がしました。
【進路とセレンディピティ】
じつはカトウヨシオさんと出会えたのは、相当な偶然でした。その当時、せまる就活のためにポートフォリオ作りに全力を注ぎすぎて、専門学校の授業を休みがちになっていたのですが、カトウヨシオさんの個展に伺う日は、久しぶりに授業に顔を出した日でもありました。
最初から興味を持って「会ってみたい!」と前のめりに人生を変えていく、ってなかなか高度な出来事だと思っています。初めはそれよりも、なんの気なしに知らない世界を知って、そこから広がっていく可能性が高いと感じます。
自分の世界って狭くなりがちで、そこから抜け出すの難しいものです。
新しい世界との出会いはむしろ、本屋に入った時に、ふと気になったタイトルを手に取ったりとか、そんなような偶然が「自分の世界から一歩抜け出すきっかけ」になったりする。
素敵な偶然との出会いを「セレンディピティ」と呼びますが、そんな偶然を捕まえるためには、すこしゆるい気持ちで、目的もガチガチに固めない行動をしてみるのも、案外いいものです。
それから、カトウヨシオさんも参加している合同のパッケージデザイナーさんたちの展示会にも行ったのですが、そこにいた方々もみなさん柔らかい雰囲気でした。
そうして「雰囲気重視」で、「パッケージデザイナーっていいな」と確信しました。
それから数ヶ月後、たまたま学校にパッケージデザイン会社からの求人が来ていていると連絡をもらい、チャンスだ!と申し込んだのでした
7.そして新卒パッケージデザイナーへ・・・
届いた求人票には、「デザイナー」じゃなく「オペレーター」と記載されていました。「言われたものを再現する職人」みたいな役職です。
会社のウェブサイトをみると、良い仕事を沢山している会社でした。
どちらもクオリティが高く、知っている商品にもいくつも関わっているようでした。
入社さえできれば、後からデザインをできる部署に移動になるチャンスもあるかもしれない。もし、なくても"一流の空気"に触れられる。当時探していた求人の中でも一番いい仕事をしていたこともあり、そのパッケージデザイン会社へと全力で面接に臨みました。
当時自分のポートフォリオのレベルは低かったですが(あとで同期のを見せてもらった)まあその部署なら、と内定をいただき、東京・青山にあるパッケージデザイン会社へと新卒で入社が決まりました。
あとで聞いたのですが、決め手は「人柄」とのことでした。よかった・・・😌
こうして、なんと実力以外のところに助けられながらも、命からがらパッケージデザイナー(オペレーター?)の職を手にすることになりました。
■ デザイン会社時代 ■
会社に入ると、すべてのデザインの目指すレベルがグッと上がりました。
出社した1日目から、いきなり何十万個と製造される飲食物のデザインに関わるワケです。
初めのうちは、ルールに沿って作業をしていけばおおよそ出来上がるような、いわゆる「展開」と呼ばれる仕事が多かったのですが、それでも1ミリでもビジュアル制作に関わる部分がある仕事があると、いちいち感動していました。
1年半ほど務めた頃、人手が足りないからと他の制作チームへ異動となりました。そちらは念願の・・・全員デザイナーの、デザインチーム。
初めてラフの案だしに参加したときの嬉しさといったら、それはもう相当なものです。先輩のダメ出しを受けて真っ赤になったラフすらも、宝のように保管していました。
パッケージの仕事は、クライアントに見せられるレベルになるまで上司からダメ出しを受け、徹底的にブラッシュアップしました。何日もそればかり、ということも全然あります。チラシや広告と比べると、比較的長く使われることの多いパッケージデザインだからか、1案件にかける時間が長かったのかなと思っています。
毎日ヘロヘロになりながらも、週明けになると「今週はどんな仕事が出来るだろう」とワクワクする日々を過ごして行きました。
8.そしてフリーランスへ・・・
パッケージデザインの仕事をしていて、ときおり感じることが1つありました。
「形だけを良くしても、それだけでは売れない」ということです。
パッケージは面積がとても狭いため、店頭で伝えられる情報は1つくらいしかありません。なのでメッセージは極力シンプルに、単純で分かりやすく。多量の情報伝達をパッケージだけに担わせるのは、あまりに重荷となります。
デザインという仕事は、商品を売りものとして魅力的に届けるための1つ。デザイナーが商品を売る、と考えたとき「いちパッケージデザイナー」として出来ることには限界がある、と感じるようになりました。
この先10年、20年とパッケージデザイナーを続けて、たとえばディレクターになったとして、自分は「ものを売れる人」になっているだろうか?と疑問に思うようにもなっていきます。
「デザインをつくり、商品を売れる人」を目指したい。そのためには、広告だったり広報だったり、「売るための手段・方法」を知る必要があるはずです。
転職を考え始めるも、ポートフォリオをみるとパッケージデザイン一色。これでは「広告をやる」と言っても、おそらく面接官にはピンとこないのではないか、不利になるのではないかと考えました。
パッケージをしてきた自分が、広告をデザインしたら。一人でどこまで出来るのか。
それを知る意味でも、いっそフリーランスとなって自分で仕事を取り、いろんな仕事をこなしていけばいいのでは。
そして自分で経験値を増やして、視野が広がっていけば、いまより少しでも「デザインを通じてモノを売れる人」に近づいていける。
フリーランスとして営業からMTG、デザイン提案、納品…全ての工程を経験し、ブランディングやマーケティングも学びながら、パッケージ以外のデザインもどんどんやる。
そうしてデザイナーとして成長し、「いいモノを売れる」ディレクターに必要な能力を目指す・・・という計画です。
9.ワクから考える人に
フリーランスとして仕事を始めて、最初は「どんな仕事もやる」という気概を持って、アシスタント的な仕事からイラスト、漫画、広告チラシ、動画、ロゴ、名刺…とにかく作りまくるを合言葉に、なんでもやりました。
そんな中で、デザインだけじゃなく言葉が必要だ、とキャッチコピーを提案したり、パッケージだけじゃなくネーミングも必要だと提案したり、値段や売り場のことまで考えたり。デザイナーの領域外の提案をして喜ばれることが増えていきました。
もともとデザイン中心の人生を送って来ていないこともあるせいか、デザイン以前の、そもそもの「枠」から考えることが自分の強みだと判明していきます。
究極を言うと、あの人に頼めば何とかしてくれるみたいなのが1番いい。
デザインが生み出す効果について考えるほど、デザイン以外の過不足について気が付くものです。「本当に必要なもの」について考えていった結果、デザイン以外の部分に答えが到達して、せっかくのご依頼をお断りしたさえも。(作っても役に立たないものを全力で作るのは、お互い虚しいものですから・・・)
提案の幅が広がると、時には自分で提案しておきながら、なんて面倒なことを考えついてしまったんだと後悔することもあります。しかし成果のためならしょうがない。そのほうが驚きが生まれ、相手も嬉しく、自分も楽しい。そこが強みであり生きがいでもあるのです。
こうして、今に至ります。
さて、ここからどこへ向かおうか?
最近は、また一歩先へと進む方法を考える日々を過ごしています。
おわりに
いかがでしたか?
ぼくが経済学部からデザイナーへ至るあいだには、どん底体験がありました。
逆にその体験から、小さい頃からデザイナーを目指してなくたって、あとからだっていいデザイナーになれるという指標になってやる!という使命感すら感じるようになりました。
このお話をする時は大体、誰かを勇気づけたい一心だったりします。今回は自分を知ってもらいたいという下心もあります(照)が
いざ書いてみると、前編・後編と合わせて1万3000文字にも及ぶ超大作となってしまいました。。
デザイナーというものが、案外遠くない存在だと感じてもらえるきっかけになれば幸いです。
もっと聞きたいことがあれば、大抵はお答えしますので、よろしければどうぞ〜。
(最後までお読みいただき、ありがとうございました!)
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