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現役の先生のエピソード3       何気ない生活の中で生きる力の源をもらうこと 

何気ない生活の中で生きる力の源をもらうこと


県内こども園 園長より

 こどもは、元気で愛らしく生き生きとしているイメージがある。
 しかし、実はそうでもないところもある。ドキッとすることも言う。そのような中に私たち保育者は身を置いている。 
 朝、泣いて登園し、いつまでも泣き止まない2歳児のこどもがいた。困り果て、何とか泣き止まそうと、あの手この手で関わるが全く効果がない。しばらくこどもから少し離れて様子を見ながら気にかけていると、自分で泣き止み、すたすたと遊び始める姿がある。「なんだ、自分で切り替えて遊べるんだ。」と感心し、そっと関わりに行くと、けろりとして「先生、これできた!」とまだ涙の跡がある顔で得意そうに高く積んだ積み木を見せる。「高く積めたね。」と二人で笑い合い共感する。「いったい、あの長い間泣いていたのは何だったのだろう。」と思わずにはいられない。しかし、「先生、これできた!」の笑顔を見ると私の心配も帳消し。
 こんなふうに、こどもは大人の心配をよそに自分でどんどん進んでいく。私は「心配して損したわ。」と思うことがよくあるのだが、それもまたうれしい。

 ある朝、3,4,5歳児混合クラスのお部屋に入り、保育者に連絡事項を伝えていると、一人の男の子が、「園長先生、髪の毛今日おおきいなぁ。」という。「どういうことだろう?」と一瞬考えるが、すぐに気が付いた。いつもは髪の毛をある程度まとめているのだが、その日はカーラーを巻いてふわふわにしていたのだ。「うわ~、よく見ているな~」と思った。すかさず、女の子が「アイロンやんな。ママも使ってる」と言う。そしてもう一人の男子が「すてき!」と言った。
「ありがと~。“すてき”なんて言葉を知ってるのね。」と驚いた。きっとおうちの方か担任若しくはクラスのこどもが、そのような言葉を使っているのだろうな、と感心した。とにかく「動物やへんなキャラクターに似てると言われなくてよかった」と安心する一方で、小さいながらも私に気を遣ってくれたのかな、とも考えた。なんてすてきなこどもたち。
 ある温かいお昼どき、私は0歳児のやんちゃな男の子とデッキテラスで遊んだ。よちよち歩きながらも、段差を登ったり下りたりして体を動かして楽しんだ。しかし、そのようなごくありきたりな遊びもすぐに飽きてしまい、彼は面白い遊びを見つけてしまった。デッキテラスにある、自動手洗い器のセンサーを見つけてしまったのである。
 何度もセンサーに手をかざしては、ケラケラと笑い嬉しそうにセンサーに手をかざして水を出したり、手を引っ込めて水を止めたりして楽しんだ。最初は私も「うわー、びしょびしょになる。着替えなければ」と思ったが、とにかく楽しそうにケラケラ笑うので一緒に笑いながら「びしょびしょだ~。」といって楽しんだ。「きっとすぐに飽きるだろう。しばらく楽しませてやろう」と思うが、いつまでもやめることなくキャッキャと楽しんだ。もうすでに袖やお腹あたり、足はずぶぬれである。「これでは風邪をひくかな」と思い、いたしかたなくストップをかけた。今でも、彼の楽しそうな笑い声と嬉しそうな笑顔を思い出すと、「もっとさせてあげたかったな~」と思うことがある。
 このように、楽しいことばかりではないが、こどもが222人いると222人の表情があり、それは何時も変化に富んでいて、私たち大人は振り回されるのだが、実はとてつもなく大きな生きる力の源をもらっているような気がする。このようなこどもたちと一緒に暮らせることができることを幸せだと日々感じることができることに感謝したい。とにかく子どもは遊びの天才で素晴らしいし、おもしろい。その中にどっぷりと身を置ける保育者は幸せである。
 やっぱりやめられない。