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いっぽんの管

「結局自分はただただ通り過ぎていくいっぽんの管でしかないんじゃないか」。

編集やライターの仕事をしていたとき、ふと、そう思うことがあった。いくらインタビューや取材を重ねてそれを文章で昇華しても、結局それは他人の事なのだし、その人には絶対になれないし、その人の本当の気持ちは理解できない。取材に熱を入れてその対象に近づけば近づくほど、その想いは大きくなる。

結局すべては通り過ぎていくだけ。からっぽの自分のなかに取材という場でなにかを取り込み、うーんうーんと悩みながら文章でそれを表しては出していくのだけど、すべてが終わってみればなにか言いようのない澱のようなものが溜まっていって、自分はどこまで行っても自分。それはもとから当たり前で分かってはいるのだけど、仕事を重ねれば重ねるほど、その当たり前がずしんと響く。じゃあ、いったいなんで自分はそんな通り過ぎるだけのことをやっているのだろうか、と。

自分が40を前にしてなんらかの自分の店を持ちたいと思ったのも、たぶんそういうことも関係している。客観客観ばかりはもういい。そろそろ自分の主観を自分で問いたい、と。

そういうなかで、久しぶりにどっしりとしたインタビューの仕事をさせてもらった。『Arthuman』というサイトでのロットバルトバロンの三船さんへのインタビュー。


そして自分はようやくひとつのことを気づく。・・・ああ、そうか。ただ通り過ぎていくいっぽんの管だって、それはそれできちんと意味があるのだ、と。たしかにそれはどこにも辿り着かないかもしれないが、少なくとも取材というたくさんの場を通して自分しかない情報を積み重ねて、「自分しかない情報を持つ自分」を産み出すことができるのではないかと。

そんなことを想ったのは、たぶんロットバルトバロンの三船さんというひとがとんでもない自分だけの情報の箱を持った方だったからだ。音楽、世界情勢、アート、映画、本・・・すべてのことにつねに感覚が開かれていてその箱からすぐに話を取り出すことが出来、話していても観たことのない景色に辿り着く。だからこそそれをまとめる方は大変なのだけど、でもなんせそれは観たことのない景色だからこっちもワクワクする。そしてたぶん結局ロットバルトバロンのファンたちは、音楽やライブを通してそんな景色を明らかに共有している。そのことが今回の取材でよおく分かった。

そんなこんなの一片でもいいから、このインタビュー記事で伝わればいいのだけれど。

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