はたして「弱者男性」を名乗ってもいいものか(中国への道④)
渡航が遠のき、隠遁を決め込んだ山中で改めて考えてみたのだが、【弱者男性】の定義が「中年・独身・非正規雇用あるいは無職および心身に障害を有するなどの社会的弱者男性」である限り、「やはり自分は弱者男性であるといえる」と結論した。
40歳・独身・無職。
「いえる」どころか堂々たる弱者男性ぶりだ。
より遡ってみれば、もうだいぶ前から【ワーキング・プア】のさらに下に【アンダークラス】なる階層が設定されていたので、そう名乗るということをしてきた。
ところが更に【弱者男性】という、字面といい響きといい実にこう「イングリッシュ的まやかしのない、みごとなまでに生々しい悲惨さと弱者感にあふれた」言葉が出現したわけだ。
これはもう、名乗るしかないだろう。
というわけで全面的に名乗ってきたのだが、
(どうもこのような名称を、なんら悲壮感もなしに名乗るというのもいかがなものか……)
という想いから、冒頭のように改めて考えてみたわけだ。
しかし、定義上の私が弱者男性であることは間違いない。
実感はともかく、事実なのだから名乗っては駄目ということもない。
だから……まあ、名乗れるうちは弱者男性を名乗っておこうか。
といおうか、考えるべきは断じてそんなことではなく、それこそ【強者男性】になる方法などであろう。そうでなくても中国語の勉強をするとか……という突っ込みを自分で入れつつ、自分が弱者男性であるゆえんと、それでいて(はたして弱者男性を名乗っていいものか)と迷う理由がわかった。