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都市での孤独感、日本人は昔から抱えていた?(『日本霊異記』前篇)

この記事では日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』について簡単な概説を行います。都という都市空間の出現によって、各地の地域の共同体から様々な背景を持つ人々が都市に流入します。彼らは共同体のつながりを失った孤立した「個人」でした。彼らの信仰心はこれまで共同体のマツリで発揮されていましたが、都市にはそうしたものはありません。そこで普遍宗教である仏教に出会い、自らの意思で仏教に帰依して弾圧のリスクも顧みずに信仰を守り続けるのでした。『日本霊異記』はそうした仏教徒の側に寄り添って、彼らの活躍を活き活きと描き出します。こうした都会人の孤独さは現代人にも通じるところがあります。

1,『日本霊異記』の書名と成立について


『日本霊異記』は原題を『日本国現報善悪霊異記』(にほんこくげんぽうぜんあくりょういき)といい、略して『日本霊異記』あるいは単に『霊異記』とも呼ばれます。この記事では以下『日本霊異記』と呼ぶことにします。『日本霊異記』は全三巻で説話116条からなる日本最古の仏教説話集です。撰者は奈良の薬師寺の僧侶であった恵戒(けいかい、きょうかい)です。彼については謎が多く、詳しいことは今でもわかっていません。
成立年は不明ですが弘仁十三(822)年以降に成立したと考えられています。

2,説話とは


説話とは、口承(口伝え)で語られた物語のことを指していい、神話や伝説あるいは昔話などがこれに含められます。
『日本霊異記』は仏教の信仰を広めるべく作成された説話集で、その形式は中国・唐の孟献忠(もうけんちゅう)が唐の玄宗皇帝の開元六年(718)年に著した『金剛般若経集験記』(こんごうはんにゃきょうしゅうげんき)あるいは『金剛般若集験記』に基づいています。『日本霊異記』はそのスタイルに倣って「自土(=日本国)」の「奇事」を集成したものです。

3,『日本霊異記』の思想史上の意義


物語の主人公は律令時代の私度僧(しどそう)の間で流布したと思われる説話を中心に組み上げられています。
私度僧とは、律令時代に政府あるいは官当局の認可(これを官度:かんど、といいます)を得ずに僧となった人々のことで、官度制においては俗人が官の認可のもとで入道(仏門に入ること)して沙弥・沙弥尼以上の僧尼になることが定められていました。こうした官度制の原型は早くは『日本書紀』天武天皇六年八月条に見え、この条では信仰のある者は老若男女問わず得度させたといいますが、そうした公的な認可を得ないで仏門に入った私度僧たちは律令体制から外れたアウトロー的存在であり、しばしば弾圧の憂き目に遭いました。こうした私度僧は都という都市の成立によって村落共同体から出てきた「個人」の出現と深く関わっています。共同体では共同体のマツリ=神祇祭祀が信仰の要であったと考えられるのですが、都市に出てきた人々はこうした共同体の紐帯(むすびつき)を喪失し、孤立せざるを得ませんでした。そこで普遍的な教義体系を持つ仏教が彼らの心の救いになったのでした。
別稿にて取り上げる行基(668~749)はこうした私度僧たちを組織して社会福祉活動を行ったことで知られています。
『日本霊異記』はこのような確固とした信仰に支えられた私度僧たちの立場に寄り添う形で彼らを積極的に受け止めようとします。
『日本霊異記』の仏教説話の特色は、書名に「現報」とあるように仏教の信仰世界は現実世界に直接的に表れた(現報)という叙述のスタイルで、因果応報の理(ことわり)を説くところにあります。
また、『日本霊異記』所収説話は各天皇の時代ごとに配列されており、日本における仏教定着期の諸相を、東大寺の建立と盧舎那仏の大仏を安置したことで知られる聖武天皇の時代をピークとして描き出そうとする点において特色が認められます。聖武天皇の事績については別稿にて取り上げます。
記・紀(古事記、日本書紀)の歴史叙述では過去→今→無窮の永遠という、今の延長線上に過去と永遠の未来を配置して歴史叙述を組み立てていますが、『日本霊異記』の場合、過去は前世であり、現生である今と来世としての未来という歴史認識で貫かれています。つまり前世や現生の因果は来世に応報として降りかかってくるという思想です。『日本霊異記』には地獄も描かれ、また悪い行いをした人物が来世に畜生として生まれ変わるという輪廻思想も見られます。
こうしたことから今(現生)での行いを慎み、地獄に落ちずに来世を良くしようという戒めが込められています。
次稿では具体的に『日本霊異記』の説話を味わってみたいと思います。

【参考文献】
・中田祝夫、日本古典文学全集『日本霊異記』小学館、昭和50年11月30日
・小野寛、櫻井満編『上代文学研究事典』おうふう、1996年5月25日
・大久間喜一郎、乾克己『上代説話事典』雄山閣、平成五年五月五日
・井上光貞、関晃、土田直鎮、青木和夫、日本思想大系3『律令』岩波書店、1976年12月20日
・小島憲之、直木孝次郎、西宮一民、蔵中進、毛利正守、新編日本古典文学全集『日本書紀③<全三冊>』小学館、一九九八年六月二〇日

執筆者プロフィール:


筆名は枯野屋(からのや)。某大学大学院文学研究科博士課程後期に在籍中。日本思想史を専攻。noteにてオンライン読書会の国文・日本思想史系研究会「枯野屋塾」を主催しています。( https://note.com/philology_japan )。

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