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日本における天皇とは?

上皇陛下の今上天皇への譲位による皇位継承にともない「令和」に改元された出来事は、平成生まれのわたしにとっては印象的な出来事でした。三種の神器が継承された「剣璽等承継の儀」(令和元年5月1日)のニュースも、はるか1300年前の悠久の神話がいまも息づいている事実に驚き、忘れることができません。天皇(大王)の「象徴」をキーワードとして、王権の理想像=統治の思想的変遷を『古事記』と『日本書紀』を中心に考察します。この記事では天孫降臨神話を起点として、思想史上の問題点を明らかにします。
そこで見出される問題点は次の二点に集約できます。
①後世に付加されたイメージで我々が古代を考えてしまっている問題
②天皇の王権を「神道」の側面だけでは全体像を捉えることができないという問題
ここでは各天皇の実在性や史実性またその是非については判断を留保し、中立的に論じていきます。
ここでお話しする内容の前提知識にあたる「天孫降臨神話」については下記の記事 をご覧下さい。


序,天皇制という「ものさし」


現行の「日本国憲法」においては日本国の主権は国民にあり、天皇陛下は国民統合の象徴と位置付けられていることはいうまでもありません。
日本の王権を分析する際に用いられる「天皇制」という言葉がありますが、この言葉が指す概念はいわば「ものさし」であり、実体を計測するための道具でしかありません。実体としての天皇を古代~近代までのスパンで同じ概念で分析することには無理があります。
たとえば近代的天皇(明治以降~戦前)のイメージの延長線上に古代の王権を見ようとすると確実に見誤ります。そこでこの記事では天皇に付加された「象徴」を最大公約数的なキーワードとして記・紀の天皇を分析のふるいにかけることにします。

1,天孫降臨神話


ここではまずWikipediaの「天孫降臨」「神勅」の項目を再検討する形で論述を試みます。

以下引用:


「天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。 邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。」(1)
「天壌無窮の神勅 『日本書紀』の天孫降臨の段で天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した以下の3つの神勅(三大神勅)のことを指す。」(2)


この解説を見ると専門家としてはつっこみどころが満載です。

2,天孫降臨神話の象徴―「三大神勅」「三種の神器」について―


『古事記』と『日本書紀』は異なる世界観を持っている別個の文献であることはすでに以前投稿した記事により述べました。天地初発から天皇の歴史叙述を一本の道筋で語る『古事記』とは対照的に、『日本書紀』は複数の原資料を正文と一書というかたちで並記した特殊な歴史書です。
『日本書紀』でアマテラスが発したとされるいわゆる「三大神勅」(天壌無窮の神勅、宝鏡奉斎の神勅、斎庭の稲穂の神勅)は、『日本書紀』第九段の正文にはみられず、第九段の一書第一と一書第二とに分かれて記載されています。
異なる一書に記載されていることは、つまるところ原資料が異なるといえるわけですから、記紀成立時において「三大神勅」なる意識は形成されていなかったといえます。
また王権のレガリア(王権の象徴)としての勾玉・鏡・剣からなる「三種の神器」観もこの時代にはありませんでした。『古事記』では「八尺勾璁」「鏡」「草那藝釼」がセットとなって地上に下されるのですが王権の象徴としての機能は強調されておらず、強いて言えば「鏡」のみがアマテラスの分身=祭器として「いつき奉れ」と命じられているにとどまります。
『日本書紀』の第九段の正文には三種の神器は登場せず、ようやく一書第一において「三種の宝物」という表記が見えますが、それ以降の皇位継承に登場するのは主に鏡と剣でした。
法的な根拠を探ると、「養老律令」所収「神祇令」では、「凡践祚之日。〔……〕忌部上神璽之鏡釼。」と定められています。
祭事を掌る官人であった斎部広成もそれを拠り所に「即、以八咫鏡及薙草釼二種神宝、授賜皇孫、永為天璽。」と『古語拾遺』(807年ごろ成立)で述べていることから、平安初期までは鏡・剣の二種が皇位継承のしるしであると考えられていたといえます。
以上から考えると、皇位継承のレガリアとしての「三種の神器」という思想は奈良~平安初期には一般的であったとはいえず、浸透した時期も比較的新しいものだったのではないでしょうか。三種の神器の概念が成立したのが具体的にいつ頃かは不明です。
ここで考察した「三大神勅」や「三種の神器」観はもっと後世に形成された概念が古代に投影されてしまっているのです。

3,神の子孫でありながら仏に帰依し儒教化する天皇


神話以降の歴代の天皇は理想的統治の「象徴」でした。たとえば『古事記』で神助を得て東征し即位した神武天皇は敬神と武勇の象徴であり、オホモノヌシの祟りで疫病に苦しんだ民を祭祀で救った崇神天皇は祀りの象徴でした。応神天皇・雄略天皇は「いろごのみ」の天皇であり、後世でいう「風流」の先駆けともいえる存在です。仁徳天皇・顕宗天皇・仁賢天皇は徳・礼教の象徴で、彼らはもはや当時最先端の儒教的君主です。そして『古事記』以降になると仏教に帰依する天皇が増えてきます。つまり記・紀が描く天皇のイメージは「神道」の枠だけで捉えきることはできないのです。そこで稿を改めて儒教にも触れていきたいと思います。

【参考資料】
・大倉精神文化研究所『神典』神社新報社、昭和十一年二月十一日
・(1)Wikipedia「天孫降臨」の項目
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8
(2021年3月21日閲覧)
・(2)Wikipedia「神勅」の項目
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8B%85
(2021年3月21日閲覧)


「古事記」と「日本書紀」について知りたい方は下記の記事をご覧下さい。



執筆者プロフィール:

筆名は枯野屋(からのや)。某大学大学院文学研究科博士課程後期に在籍中。日本思想史を専攻。noteにてオンライン読書会の国文・日本思想史系研究会「枯野屋塾」を主催しています。( https://note.com/philology_japan )。

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