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【アーカイブ】「よろしくお願いします」

(『CAR GRAPHIC』2014年2月号より転載、加筆・修正あり)

 日本語のなかには、そのニュアンスまで正確に英訳できない言葉やフレーズが いくつもあって、「よろしくお願いします」はその最たるもののひとつだと思う。

 試しに翻訳サイトを使ってみたら、『Yahoo! 翻訳』では「Thank you very much for your help.」、『Google 翻訳」では「Thank you in advance.」と訳してくれた。「よろしくお願いします」は英語にすると、どうやら感謝や御礼や謝辞の意として解釈されるようである。でも、実際にはそんな限定的な場面だけでなく、日常のさまざまなシーンで私たちはこのフレーズを使っている。その時々の状況や前後の会話、文脈などによって、「よろしくお願いします」の持つ意味は七変化する。なんとも都合がよく、そして非常にあいまいな慣用句でもある。

 これまで数え切れないくらいの「よろしくお願いします」に遭遇してきたけれど、いい気分になれたことはあまりなかった。メールの最後に書かれている「よろしくお願いします」はどこか無機質で体温が伝わってこないし、名刺交換のときの「よろしくお願いします」の主役はあくまでも名刺で、言葉はあくまでも添え物的な感じがする。高いスーツをだらしなく着こなすことにかけてはたぶん世界一だと思う某職業の方からの「まあとりあえずそんな感じでよろしくお願いします」は一番キライで、「とりあえずそんな感じってどんな感じよ」といつも呆れていた。大きな失敗をやらかして「よろしくお願いしますよ!」という怒られ方をしたこともあった。だからこのフレーズは、個人的に「あまり好きじゃない日本語」のグループに属していたのである。2013年10月26日のあの時までは。

 トヨタ博物館の奥には大変立派な応接室が設けられていて、大きなガラス窓からは眩しいくらいの陽の光がたっぷりと注ぎ込んでいた。やっぱり例によって背筋を伸ばし、小林彰太郎さんは満里子夫人と共にそこに座っていた。彼の前だと誰もが緊張すると言うけれど、原因のひとつは糊のよく効いたYシャツのようにパリッと凜としたしたその姿勢のよさにもあったのではないかと思う。そして案の定、自分も一瞬にしてガチガチになってしまった。

「小林さん、こんにちは」

「はい、こんにちは」

 うーむ、肝心の次の言葉がなかなか出てこない。ややあってからようやく口をついたのは、いま思い返しても顔から火が出るほどお粗末なものだった。

「えっとあのこのたびはすいません」

 なんで謝ってるんだろう。昨夜ベッドのなかで何度もシミュレーションしたのに、結局めちゃくちゃじゃないか。

 すると小林さんは、舞い上がる若輩者をなだめるかのようにゆっくりと、芯のある明瞭な(いつもの)口調でこうおっしゃった。

「カーグラフィックを、よろしくお願いします」

 小林さんが旅立たれたのは、それから2日後のことだった。ご葬儀の手伝いに伺いご家族に挨拶すると、「そういえば」と満里子夫人が切り出した。

「トヨタ博物館であなたに『よろしくお願いします』って言ったでしょ。あの人、『よろしくお願いします』なんてめったに言わないものだから驚いたのよ」

 隣にいらした長男の大樹さんも「ヘーそんなこと言ったんだ、珍しいね」とおっしゃっていた。

 自分は、とんでもなく重くて貴重で優しい、最高の「よろしくお願いします」をもらったんだと思った。

カーグラフィックの7代目編集長を拝命した渡辺慎太郎です。

よろしくお願いします。

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