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ことばを贈ろう。最後の一言だと思って。

その日、彼は

一冊の本を手に、僕のもとにあらわれた。


平日の昼休み、突然の電話。

上司にことわり、待ち合わせ場所へ向かう。


友達と言っていいかわからない距離のトモダチ。

僕の興味をよそに、マニアックな知識を楽しそうに話すやつ。でもどこか、いや、全く憎めない、いいやつだった。


手にしていた本は、旅行の本。

どこがいいとか、ここは君におすすめだとか。

「なんで今、その話なんだよ」という本音が喉を通り過ぎて出てしまったけど、そんな会話も、彼とならいつものこと。

締め切りが近い仕事を抜けてきたので、早めに帰ろうと思った、

けど。

「少し急いだところで変わらねえな」と諦めて、彼の話をめずらしく(初めて?)最後まで聞いた。

彼は満足したのか、何か思い出したように、その場を立ち去っていった。



なんと言って別れたか、覚えていない。



でもそれが、彼と交わした最後の言葉になった。



・・・


その場に似合わない、大きくて、幸せそうな写真。


手を合わせて伝えるけど、ただ同じ表情で、微笑み返されるだけだ。


早すぎる。


思い浮かぶかぎりの後悔を、たれ流したあと、

自分に向いたベクトルが、ふと浮かんだ不謹慎な考えを連れてきた。



「あのとき、ちゃんと話を聞かなかったら、
 一生、僕はそのことを、
 後悔し続けていたかもしれないな」


最後の一言かどうかは、
0になってからしか、わからないものだ。



・・・


今日、5月18日は「ことばの日」

ことばについて考え、ことばを大切にする日。


できれば楽しいことを書きたかったけれど、ことばを大切にするということを、うんと悩んで考えたとき、

最初に浮かんだのは「最後の一言」だった。


コロナ禍で、なかなか会えない、いま。

自分の記憶の中の人たち、何人と、0になる前に、ことばを交わせるだろうか。大切な人とことばを交わせるのは、あと何カウント残っているだろうか。

そう考えると、

「ことばの日」は5月18日だけど、

明日も明後日も、ことばを大切にする日であることは、変わりないのだろう。



・・・

もう一つだけ、伝えたいことが。



0に限りなく近い、0.00001になろうと、

大切な想いは、伝えたほうがいい。



14歳のとき、母の臨終に立ち会った。


それは、人がまるで物になるような感覚に陥る、

とても不思議な経験だった。

舞う蝶と、蝶の標本。

そんなイメージが浮かんだことを覚えている。



最後の最後まで、

「お母さん」と手を握って叫び続けた。


電池切れのような音が、鳴り響いても、なお。



なんの意味があったんだろうか。

年頃になり、テレビドラマのようなことをしていたのだなと恥ずかしくなった。でも最近、あることを知った。


聴覚は、死の直前まで、残る感覚らしい。


恥も外聞もかなぐり捨てて叫んだ言葉は、もしかしたら届いていたかもしれない。確かめようがないし、とても低い確率だったかもしれないけど、届いていたかもしれない。



「ことば」


それについて考えるとき蘇った記憶は


大切な人には、想いを伝えること。

それを最後の最後まで、諦めないこと。

そして届かなくても、こうやって伝えること。


その大切さを、思い出させてくれた。



ことばを大切にしよう、は、

つい忘れてしまいそうだから。



ことばを贈ろう。

最後の一言かもしれない、と

思い出しながら。







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