フェスの現場から考える、日本の生きづらさの正体。日本のフェスはなぜクリーンなのか? #フェスティバルウェルビーイング
フェスを仕事にして10年近くなる。文章を書くことを仕事してからも同じ年月が経った。フェスも編集も、ド素人からはじめたわけで、まぁ、悪くないよね、ぼく頑張ってるよ、うん。
そんな僕にしかできないことを探した結果「フェスティバルはもっと社会の役に立てるのでは」という思いを書き記している。
こういう視点でフェスを眺めていると、フェスで起きている様々な事象と、社会で起きている事象がつながることがある。
今回は「世界に誇るクリーンな日本のフェス」という事象から、日本社会に漂う「生きづらさ」を感じたので、noteに書いておこうと思う。
世界一クリーンな日本フェス
日本のフェスは、場内がとてもクリーンだ。ゴミが落ちていない。
例えば、フジロックは、世界一クリーンなフェスティバルだと言われてきた。それは、ただ自称しているわけではなく、リサーチ会社による世界的な格付けでも、自然環境への配慮が評価されている。
コーチェラとグラストンベリーの2つのフェスティバルは世界の重要音楽フェスティバルを格付けする「Festival250」の1位と2位に選ばれた。3位には日本のフジロック・フェスティバルが選出された。
Festival250はイギリスの音楽業界のリサーチ企業Festival Insightsと市場調査企業CGA Strategyの共同プロジェクトで、今年9月に第一回のランキングを発表した。世界の音楽フェスティバルを網羅するこのランキングは、2015年の観客動員数や会場の規模、チケット売上等を総合的に評価して格付けを行ない、各フェスの特徴を記している。
環境への取り組みが評価
フジロックについてFestival250は、1997年の富士天神山スキー場での第一回で台風が直撃し、後半の日程がキャンセルになったことや、その後新潟県苗場に会場を移して運営を続行中であるといった歴史を手短に解説。
木々に囲まれた環境の中で「自分のことは自分で」「助け合い・譲り合い」「自然を敬う」をスローガンに掲げ、環境保護への取り組みを続けつつ、グローバルレベルのアーティストらを招聘し、観客らを魅了し続けている点を評価したとしている。
https://forbesjapan.com/articles/detail/14452%C2%A0
フジロックが世界一クリーンだと言われている所以としては、ごみを「拾う」のではなく、ごみを捨てさせないように「会話」する、ゴミステーションのボランティアスタッフを束ねるNPO法人iPledgeたちの存在も大きい。
もともと、同団体はごみを拾う活動をしていたが、それだけでは問題は改善しないと気付いた。ボランティアだけが動いても限界があり、フェス参加者の意識を変えて、参加型のイベントにすることが必要だと考えた。この考えから、コミュニケーションで、ごみ分別を促す仕組みが生まれた。
http://olive.bz/art/mix/e3f54eeb5b9b5f89db38857c2e303085?genck=1
海外フェスのえげつないポイ捨ての量
今年の6月、イギリスで開催される世界最高峰のフェス「グラストンベリー・フェスティバル」に行ったんだけど、実はグラストンベリーはポイ捨てがひどい。ドリンクを入れた紙コップ、テイクアウトしたフェス飯の箱、笑気ガスってドラッグが入っている小型のタンク…。いろんなものが捨てられている。
事前に聞いていたけど、さすがにひどすぎるなぁという印象。ゴミが気にならないのかなぁと思って、ローカルっぽい子たちを観察すると、どうやらそうでもないみたい。自分たちが腰掛けるときは、そこにあるゴミを寄せて、きれいな場所に座るので。
でも…日本のフェスはクリーンすぎる…?
グラストンベリーは、呆れるほどひどいなぁと思った。本当にそう思った。と同時に、日本のフェスはクリーンすぎるんじゃないかとも思った。この差はちょっと「不自然」じゃないか…と。
だって、素晴らしい音楽に出会い、踊り、アタフタしちゃうほどの多幸感に包まれたら、いったん、ゴミなんてどうでもいいじゃない?うわーって、紙コップを放り投げて、ハイになっちゃう人がいてもいいじゃない。フェスだもの。
お腹がたるんだ上裸のおじさんが教えてくれた「生きやすさ」
僕が感じた不自然さ。その違和感を説明するためのヒントは、グラストンベリーの中にあった。
それは、お腹がたるんだ上裸のおじさんだ。
グラストンベリーの人々は、自由な格好をしていた。お腹が出ていようが、歳をとっていようが関係なく、上裸や水着でウロウロしている。もし「なんでそんな格好しているの?」と、聞いたら「暑いから脱いでるだけだけど…?」と、なんでそんなこと聞くんだ?と怪訝な顔をしながら答えが帰ってくるのではないか。
僕だって、暑いよ。めちゃくちゃ暑くて、午前中に動き回るのを諦めた日があるほど、暑かった。でも、ぼくは脱がない。なぜかと言えば、恥ずかしいからだ。服を脱いだら、脂肪を纏っただらしのないお腹を他人に見せることになる。海やプールが嫌いなのもそうだ。こんな体を誰かに見られるのが恥ずかしい。だから、フェスだって、脱がないのだ。
自分のお腹が恥ずかしい。だから、上裸のおじさんを見たときに「あの人、あんなだらしないシルエットで上裸って恥ずかしくないのか?」って思ってしまう…。
自分が他人を気にしない。だから、他人も自分を気にしない ⇔ 自分が他人を気にする。だから、他人も自分を気にする
グラストンベリーで見たポイ捨ての多さと、上裸のおじさん。この2つの事象は、裏表でつながっている気がする。
暑いから脱ぐ。他人がどう思おうと関係ない。
邪魔だからゴミを捨てる。他人がどう思うと関係ない。
暑いけど脱がない。他人に見られるのが恥ずかしい
邪魔だけどゴミを捨てない。他人に見られるのが恥ずかしい。
つまり
自分が他人を気にしない。だから、他人も自分を気にしない。
でもぼくは、
自分が他人を気にする。だから、他人も自分を気にする。
トイレにはゴミが溜まっている日本のフェス
フジロックに限らず、多くの日本のフェスはクリーンに保たれている。でも、ひとつだけ例外的に、多くの日本のフェスでゴミがポイ捨てされている場所がある。
それは、仮設トイレの個室だ。
汚物で…というわけではない。ゴミが溜まりがちなのだ。
トイレの隅に、トイレットペーパーを置くちょっとした棚に、飲み物のカップが積み重なっていく。
これって、他人の目が気にならない、トイレという一人きりの空間だから、捨てられちゃうんじゃなかろうか。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なんていうけど、これも他人も同じことをしているから、当然、他人の目は気にならないってことだよね。
人が他人を見張り合う「"アナログ"監視社会」
グラストンベリーを体験したあと、日本のフェスを見ると、快適さと同時に、全体主義的な何かを感じてしまう。
SFで描かれるディストピア的な"健全"な社会は、真っ白で直線的で、ゴミひとつ落ちていない。こういったある種の "薄気味悪さ" を感じるほど、グラストンベリーと日本のフェスのポイ捨て事情には差がある。0 - 100 ほどの開きがある。
日本は「他人の目」という曖昧なルールを、なんとなく共有している。そのルールの基準は一人ひとりの心の中にある気がする。
自分自身が他人を見るときに気にすること
他人に対して不寛容になるところ
そんなとき「他人の目」が気になる。
つまり「他人の目」とは「自分の目」ではないだろうか。
がっつりタトゥーを入れている人も多いよね
「監視社会」というと、スマホやPCについているカメラや、街なかの監視カメラの増加、インターネットの閲覧履歴など「"デジタル"監視社会」が問題になる。でも日本は、1億2千万人以上の人間による「"アナログ"監視社会」が存在する。
フェスのフィールドがきれいだという事象に関しては、この「"アナログ"監視社会」は、ポジティブに働いている。ゴミなんてないほうが快適だ。しかも、誰かが捨てたゴミを、もう一度誰かが拾うなんて、二度手間もいいところ。ゴミを拾う人の人件費を誰が出しているかといえば、チケットを買う参加者だ。
でも、往々にして "アナログ"監視社会は「生きづらさ」として社会にネガティブな効果を生んでいるように思う。
生きづらさ、つまり、自分らしく生きることを躊躇する人を増やしてしまう。
この抑圧から抜け出すには「自分が他人を気にする。だから、他人も自分を気にする」ループを破壊しなくてはいけない。他人を変えることは難しいから、まずは自分から壊していくしかない。自分が他人の行動に対して、寛容になってみる。夫婦別姓だろうが、LGBTQだろうが、人種が違おうが、どうでもよい。
他人が他人らしく生きたって、自分の人生にデメリットは一切ない。もっと他人に無関心でいいはず。
(逆に言えば、他人の人生を否定するような「自分らしさ」は全否定だけどね。差別やヘイトにははっきりNO!)
不寛容のクリーンより、寛容のクリーンがいい
何度も言うけど、ゴミを捨てることを肯定しているわけじゃない。クリーンなフェス自体は称賛されるべきものだ。
台風の直撃 × 山特有の気温の低下 × 野外フェス慣れしていない来場者の掛け算で、死人が出てもおかしくないほどのカオスになった第一回目のフジロック。そのときの光景を写真などで見ると、100円均一で売っているようなビニールカッパやブルーシート、ビニール袋?でフィールド全体がゴミだらけ。その有様は、グラストンベリーよりも何倍もひどい。
そこからの世界一クリーンなフェス。主催者側も来場者側も独力して実現した、世界一クリーンなフェスはこれからもそのままであってほしい。
でも、やっぱりそのクリーンさと、日本社会の「生きづらいさ」は連動しているように思う。
BRAHMANのTOSHI-LOWは、フジロックのゴミ問題について、インタビューでこう語っている。
ゴミが落ちているときに、じゃあどうすればいいのかって思うんですね。そのときに<フジロック>が汚くなったと嘆くのは簡単だけど、じゃあ誰かのゴミをあなたはひとつでも拾いましたかっていう意識が足りないんだと思う。<フジロック>が汚くなったっていうことで終わるんじゃなくて、目の前にゴミが落ちていて、ゴミステーションがそこにあるんだったら、誰のゴミかわからないけど、持っていっちゃえっていう気持ちの余裕が、去年の<フジロック>に関しては少なかったんじゃないですかって。
https://frf-en.jp/talking-about-fuji-rock/brahman
こういう一人ひとりの行動の結果、ゴミがなくなったとしたら、なんかとっても生きやすいと思う。
他人の目が気になって、しかも、他人の目が届かない場所ではポイ捨てする現在が「不寛容のクリーン」なら、TOSHI-LOWが語るのは「寛容のクリーン」だ。ぼくは寛容のクリーンがいい。
「まったくしょうがねぇな。でも、楽しいもんな。お前が捨てたゴミ、おれが拾うよ」って。
ちなみにポイ捨てがひどいグラストンベリーだけど、別の方向で、強いメッセージ出している。毎年100万本にもなるペットボトルの販売が禁止されたのだ。
今年の夏に英国の野外音楽フェスティバル「グラストンベリー・フェスティバル」に向かう人は、飲み水を入れるマイボトルを持参する必要がある。50年近い歴史を誇る同フェスティバルは今年初めて、会場内でプラスチック製ボトル入り飲料の販売を禁止する。
共同オーガナイザーのEmily Eavisはこう話した。「環境の保全こそが最優先されるべきだ。今年のグラストンベリーで100万本ものプラスチックボトルの使用を削減できることに、エキサイトしている。フェスに参加する全ての人々が、自分の行動を少し変えるだけで、世界に変化を与えられることを自覚してほしい」
https://forbesjapan.com/articles/detail/26231
プラスチックフリーに向けて大きく舵を切ろうとしている、ヨーロッパらしい取り組みで、素晴らしいよね。