
『ハイデガーの思想』:しんすけの読書日記
三十年ぶりの再読となる。十年ほど前にも読んでいるから再々読と言うべきかもしれないがそう書く気持ちになれない。

十年前はWebデータベースを中心にした仕事の関係で多くのアホと付き合う必要があった。今でもWebデータベースの仕事をしているがSOHOとでも云えるものだから、アホたちの顔を合わすこともなくなった。
だからこそだろう。下記が身に染みてくるように感じてならない。
さまだまな〈……デアル〉を豊かに包みこみ、おのれのうちから発現させるような〈ガアル……〉だからである。
哲学、それも(哲学の同義語ともいわれる)形而上学にあっては、形となったものでなく形を成すことが重要とされる。したがって下記は本質的なことである。
「存在している」と語るとき、重要なのは「存在」ではなく「している」ほうなのだ。
ハイデガー自身も『存在と時間』を書いていたころはこの点が曖昧だったのないか。だから『存在と時間』は未完に終わてしまったとも云えよう。

しかし後年の『形而上学入門』ではそれを正面から問いにしている。
どうして存在があるのだろうか、それよりも無があるといえるのではないだろうか? ここではこの問いから始められる。これはけっしてく恣意的な問ではない。「なぜ何もないのではなく、何か(存在)があるのか?」これが明らかにすべての最初の問なのだ。しかし最初のものだと言って、もちろん時間の順序の従った最初というのではない。それは多くの人達だけでなく個々人も、長い時を経る中で多くの問を抱き問うということだ。彼ら言っている。「なぜいったい存在があるのか、むしろ何も存在しないのではないか?」こうした問に出会ったとき人々は、多くを探索し、検索し、検討し続けたが、それは終わらない問いだった。だが問うこと事態を知らなかったのなら、人々は自分をそんな問の陥穽に陥らせることももなかったはずだ。
存在しているのか、存在してないのか。それを形で求めてもその答えは返ってきはない。しているかどうかはぼくたちの認識(思考の果てのものとしての)に過ぎないからだ。
そしてここでの正確な答えは「考え続ける」ということになるにちがいない。
ハイデガーは形而上学成立の起源を、プラトンとアリストテレスに観ている。
形而上学… それが古代人から現代人への最高に愉しいプレゼントだったと言っても間違いではない。

※最初のほうでアホなる言葉を発した理由は、企業に所属するプログラマーにフレームワークを有難るものが多いからである。