脇役に惚れこむ
創作の途中で主役が誰なのか不明になることが、ときおりある。
「狂言回し」のつもりで書いていた人物が、創作者の意志に反して輝きだすことがあるからだ。
いま「はがくれの街」という創作に取り組んでいる。
これは二十代から三十代にかけての、ぼくの苦い思い出にエコーをかけたような作品。
主役は愼一と由佳理。二十代で破綻した二人が、三十代で再会し結ばれることを主題にしている。
経験をもとにした作品だが、とうぜん半分以上は虚構が混じっている。
その中に那津子という女が登場する。
気が強く博多弁で話す女だ。話を円滑に進めるために「狂言回し」として生まれた女なのだ。
おかしなことに最近、那津子の登場箇所を書いているときが一番楽しくてならない。もしかしたら、ぼくは那津子のような女が好きだったのかもしれない。
その解答は書き進めていく中で、ぼく自身に問うていくことでしか得られないと思う。
こんな意外な展開があるから創作が、面白くてならないのだろう。
題名にある「はがくれ」は、山本常朝の「葉隠」を意識したもの。
人間にとって死とは何なのかを追求したのが「葉隠」だと思う。
何れはだれもが死んでいく。生きている者にとってそれを考えることは恐ろしいことでもある。
余命が少なくなればなるほど、その恐怖の度合いが大きくなっていく。
だが生きていることが、死への道だということも確信する。
「はがくれの街」で、死を直接描くことはないが、死を意識させる作品に仕上げてたい思っている。
常朝のこの言葉は、死を目指すものでなく生きている重要さを知らしめるものと、ぼくは解釈している。