
不器用な先生 958
三月三日 (土)
環は朝から爽快な顔をしていた。熟睡したに違いない。読書会のために用意したものが、昨日の段階で出来上がったのだと思えた。それもかなり満足できる形で出来あがったのではないだろうか。それがなんであるかは穿鑿する気はまったくないけれど、打ち込めるものがある素晴らしさを改めて知ったのではないだろうか。『アンナ・カレーニナ』の感想文を書いたとき以来のことだろう。
キッチンで彩が環に笑いながら話していた。
「甘酒でも酔うから、飲むのは今晩ね」
広尾から雛祭用の甘酒が贈られてきたのは、先日のことだった。
去年は彩の翻訳の仕事が最終段階に入っていて落ち着いて味わうことができなかった。それを彩も環も思い出していたのだろう。
今日は雛祭だけど環は読書会のために昼前に出かけることになっていた。読書会の日程を決めたときは、たんに週末ということしか念頭になかったのか。
甘酒は読書会の感想でも語りながら味わえば、十分にちがいない。
超訳の四十三節にかかることにした。ここはかなり長い節だが、アンチノミ―(二律背反)入門とも言える面白い箇所だ。書いている途中に環は出かけて行くことになるだろう。
『純粋理性批判』では、注意深く認識の種類を区別することも重要だが、ぼくの最大の関心となったのはそれだけではなく、それぞれの認識に属するすべての概念を、共通の情報源からどうすれば導き出すことができるか、これが最大の関心事だった。
それらがどこから由来するかを知って、その使用法を確実に決定できるだけでなく、概念の列挙、分類、区分を行う過程から、ある利益を取得すること目的にしていた。それは概念の完全性をア・プリオリに、つまり原則に従って認識するという、これまで考えられなかったが非常に貴重なものを持つということだ。
これがなければ形而上学のすべては、たんなるラプソディーに過ぎないものとなり、所有する理念が十分なのか、それとも欠けているのか、そして欠けているときはそれはどこなのか、そんなことすらまったく解らないことになる。ここでいう利益とは純粋哲学だけが持っているものだ。だがこれこそが純粋哲学の本質を構成するものなのである。
一休みしたら、環が出かけてしまっているのに気づいた。そのすぐ後のコトラちゃんの訪問が、その代りのように思えていた。