自動化の限界・・・複雑なことができるわけでも安いわけでもない
拙著を読んだ人から「もっと大規模化して、自動化を進めればいいのに、なぜしないのか」と質問を受けた。確かにテレビとか識者の話を聞いていたら、農業を自動化するだけの技術が既に存在するかのように見える。しかしそうした話は20年以上前からあるのに、一向に普及しない。なぜなのか。
二つほど原因が考えられる。一つは、「自動化って言っても大したことができない」こと。たとえば今の技術なら、田んぼを自動で耕したり田植えしたりすることは可能。だけど。田んぼの畔から田んぼに下ろすところは、たぶんまだ自動化できていない。そこまで賢くできていない。
トラクターが自分でトラックから降りてくれて、畔を潰さないように慎重に水田へと降りてくれ、もし水田の中で深くぬかるんだところが見つかっても自動で判断して引き返したりできたらいいけど、そこまでの判断能力を持たせようとしたらひどく高くつく。
「全自動洗濯機」が家にあるご家庭も多いだろう。しかし全自動なのは洗うこと、脱水すること、おまけがあれば乾燥するところ、そこまで。洗濯カゴの中から、破れやすい服を選んで洗濯ネットに入れてくれたり、洗濯の終わったものから物干しに干してくれたり、乾いたらたたんでくれる機能はない。
そう、「全自動」と言っても、洗濯物から色移りしそうなものをより分けてくれる機能があるわけでも、洗濯を終えた服にしわが寄らないようパンパンと伸ばして干してくれる機能もない。それら複雑な工程は人間が行うしかない。
これは全自動のトラクターでも一緒で、全自動なのは田んぼを耕すとか、苗を植えるなどの単機能の部分のみ。確かにそこが自動化されるだけでも楽になる面はあるが、人間の手を離れるわけではない。トラクターの刃を自分で交換する機能もない。人間がお世話しなければ動かない。自動化はそんなもの。
「百姓貴族」という漫画エッセイで面白い名言。
「自分で直せないものは要らん」
とある農家が全自動高機能のトラクターを導入したのだけれど、繁忙期に故障した。すると、その修理に何日もかかるのだという。今、この時に収穫しなきゃいけないのに。複雑な機械はプロでないと直せない。使えない。
もう一つ、問題がある。「高い」こと。
アメリカ南部で、広大なメロンの産地があるという。そのメロンは皮が厚く丈夫なので、収穫後、トラックに投げて放り込んでも傷がつかない。自動化が可能なのだけれど、収穫機を自動化する予定はないという。なぜなら、高いから。
自動化すると、機械は複雑化する。するとお値段が張る。故障したら農家自身では直せず、エンジニアに来てもらって修理しなければならない。修理にもお金がかかる。それくらいなら、メキシコ移民を雇って収穫してもらう方が安くつくのだという。だから自動化が進まない。
自動化は必ずしも効率化するとは限らないし、安く済むとも限らない。自動化の多くは単純作業に限られる。全自動洗濯機が基本、「回転」という単純な動きに限られていて、洗濯ものを選ぶこともたたむこともできないように、農業機械も田畑の中の単純作業しかできない。
それに結局、人間が田園地帯を歩かないといけない。水路が問題なく機能しているかどうかを、機械は教えてくれない。もし教えてくれるセンサーをつけたとしても、水路が詰まったのは土砂崩れがあったからなのか、草がボーボーに生えてしまったからなのかを教えてくれない。人が直接確認する必要がある。
田んぼの畔にモグラの穴が開いていても、全自動トラクターは教えてくれない。モグラの穴を埋めてもくれない。そうした柔軟で適切な行動は、人間にしかできない。もしそれらをすべて機械で行おうとしたら、ものすごく高くつく。結局、人間の方がフレキシブルで安上がり。
自動化の恩恵は、比較的動作が単純なところに限られる。複雑な動きを求められる場面では自動化は非常に困難。変に自動化しようとすると高額になってペイしない。人間がやった方が早いし安い、という場面は非常に多い。だから、変に自動化に過大な期待を持たないほうが良い。
人工知能の研究が進んで、かつてできなかったことができるようになった面はある。でも、ロボット掃除機が階段を登れないように、与えられ、整えられた環境でしか自動化は難しい、という点は変わりない。あまり自動化に過大な期待を持たないほうが良いだろう。