老害とは何か
老害って何だろう?私は子どもが小さいからまだ若いつもりだけど、もう五十。昔なら老境。老害と言われる恐れを持っとかなきゃ。では何をしたら老害なんだろう?老害どころか実に素晴らしいご老人もいる。何が違うんだろう?
もしかすると「若い人に失敗する権利を許さない」ことかも。
老害と呼ばれる人の言動を見ると、自分の経験・知識の広さ深さを誇り、若者の未熟をバカにし、俺の言うとおりにしておけば間違いない、と、命令通り、アドバイス通りに動くことを求めることが多いように思う。自分の言った通りにしないと怒る。失敗すれば「ほれ見たことか」と自分の見識を誇る。
でも、あれ?こんな人、老人でなくても結構いるなあ・・・自分の知識や経験に絶対の自信を持ち、他の人の判断を信じず、自分の言うとおりにしろと要求する人。
単にアレか。老人になるとなるほど知識も経験もあるだろうとなるから、言い返しにくくなるのが厄介なのか。
年をとることで重ねてきた知識経験は重みがある。「若いお前は知識や経験が不足してるから分からないだろうが」と言われたら、実に言い返しにくい。明日になったら10歳トシをとれるというものでないから、反論するにはその人の年齢にならなきゃできない。反論しにくい点が、老害の問題なのか。
でもまず私は、「失敗しちゃいけない」という思い込みにまず問題があるように思う。取り返しのつかない場合を覗き、失敗は沢山の学びがあるから、私は推奨したい。失敗しないとわからないことはたくさんある。なのに先人が知識と経験で失敗を回避させたら、若い人は学ぶ機会を失ってしまう。
「失敗しちゃいけない」は、強い立場にいる人間が弱い立場の人間に押し付けすることを正当化する、好都合な言い訳のような気がする。ほら、俺のおかげで、私のおかげで、失敗せずに済んだだろう、と、貢献感とか自己効力感とかを味わえる。しかしアドバイスされた人は命令された感を強める。
赤ちゃんから老人まで、「能動感」がとても大切だと考えている。自分が能動的に動いたことで、何か変化が起きた、と感じられる感覚。それがあると、自分は世界に働きかけている、という実感が持てる。しかし人のアドバイス通りに動くことを強制されると、やらされた感(受動感)が強まる。
私は子育てにおいて、子どもが能動的に学ぶことを勧めている。失敗も含めて能動的に動くと、五感を働かせて情報を獲得する。どうやったらうまくいくのか、頭がフル回転する。
これが、人からああしなさい、こうしなさいと言われると、学びが成立しない。言われた言葉やその人の視線が気になって。
つまり老害とは、「失敗しちゃいけない」をタテにとって、「ほら、俺のおかげで失敗せずに済んだだろう」と、貢献感とか自己効力感とかを独占する行為を繰り返すことなのか。そして若い人から失敗と言う名の能動感を奪い、学びを阻止してしまう行為なのか。
私は学生やスタッフを指導する際、「ああした方がうまくいくのに」などと、失敗させないような考え方をとらないようにしてる。逆に、「この人はどんな失敗をするだろう?」と、危険のない範囲で、なるべく失敗することを楽しんでもらうことにしている。その方が習得が早く、判断力もつくから。
老害は、「俺の知識経験で若者から失敗を取り除いてやろう、そうすることで俺のありがたみを分からせてやろう」という考え方をしてる時に出るのだろう。そうすることで、失敗からの学びを若者から奪い、苦労して成功までの道のりを発見する楽しみを若者から奪ってしまうことに思い至らずに。
老害を回避するには、「いかに若い人に失敗を楽しんでもらうか」というマインドセット(思枠)を持つことかもしれない。失敗することで得られた知識経験、五感を使って観察することで得られた経験、試行錯誤することの楽しさ、ついに成功に導いた達成度、それらを若い人に味わってもらう配慮。
「失敗してもそこから学び、苦労してでも試行錯誤することで成功に導く喜び」を若い人にも味わってもらう、という思枠を持つことができれば、老害を避けられるのかもしれない。そんな仮説を当面は持って、改めて老害問題を観察していきたい。