「してあげる」から「してもらう」へ・2

朝イチで面白い実験が行われた。いくら注意しても交差点を飛び出してしまう子どもたち。その子どもたちに「君たちの親はこれから目隠しします。あなたが交差点の向こうへ安全に親を渡して上げてください」と伝えた。するとどの子も左右を念入りに確認し、親の手を引いて渡った。

親御さんたちはみんな一様に驚いた。「いくら注意しても左右も注意せず、飛び出してしまうのに」。
なぜ親が注意してる間は左右を確認しなかったのだろう?それは「してあげる」からだろう。交差点に近づいたら親が先回りして、左右を確認するように言ったり、飛び出さないように注意するから、

子どもは、左右確認や立ち止まる注意さえも、親に「アウトソーシング」するようになったのだろう。「親がやかましく注意してくれるなら、僕はやらなくていいや」と。
では、なぜ親が目隠ししたら子どもたちは急に行動が変わったのだろう。親が先回りしなくなったから。「してあげる」がないから。

親は子どもに左右を確認してもらい、慎重に道路を渡ってもらうしかない。自分の身を委ね、子どもに全てを任せるしかない。このとき、子どもは自ら能動的にならざるを得なくなったのだろう。親の命を握るのは自分なのだ、という強い責任感が芽生えたのだろう。親が「してもらう」に変わったからだ。

子どもがちっともいうことを聞かない!って親が怒ってる場合、私が見るところほぼ全てと言ってよいほど「してあげる」親。子どもに「何もしない」と怒りながら、自分が先回りして注意し、手を動かしてしまう。子どもとしては、親がやってくれるのがわかってるから、そりゃアウトソーシングしてしまう。

たとえば食事を終えた時に「自分の分の食器を台所のシンクに持っていってくれる?」と頼むと、たいがいの子どもはやってくれるだろう。「ありがとう!これしてくれるだけでもずいぶん助かるわ」と、軽い驚きと感謝を伝えれば、子どもはますます張り切って他の食器も運ぼうとするかも。

子どもは「してあげる」よりも「してもらう」」方が大きく成長することがある。
昔、「ドン・チャックの冒険」というアニメがあり、子どもが一所懸命親を喜ばそうと、洗濯したり洗い物したりしたら、洗濯物はグチャグチャ、お皿は泡だらけ。手間がむしろ増えたと怒っていた。

そこでドン・チャックのお父さんが親御さんたちを諭し、親子で一緒に洗濯物や洗い物をやってみた。子どものできない部分だけ手助けはするけれど、子どもにできることはみんなやらせてみる。すると、今度は立派にやり遂げた。子どもたちは誇らしそう。

子どもはいろんなことに挑戦したい。親がやっていることを自分もやってみたい。「できない」を「できる」に、「知らない」を「知る」に変えたい。でも親が「してあげる」と、子どもは手出しできず、挑戦もできず、自分を成長させることができない。

なるほど、子どもに家事を任せたら、よけい時間がかかるし、場合によってはやり直さねばならないし、余分に手間がかかるだろう。しかし誰しもそのモタモタした試行錯誤の時期を超えないと、人は成長できない。その試行錯誤の中で、自分の感覚を育てざるを得ないからだ。

私は以前、学生やスタッフの覚えの悪さにイライラしていた時期がある。「こんなに懇切丁寧に教えているのに、なぜ技術や知識が身につかないのだろう?」何度教えても同じことを質問される。また教えなければならないのか!と、成長の遅さに苛立っていた。

ところがある学生の指導をきっかけに、「教えてあげる」(してあげる)をやめ、できる限り本人の知力経験を「活かしてもらう」(してもらう)に指導法を変えてみた。すると、それまで何度教えても覚えてもらえなかった作業や知識が、一度で身につくようになって驚いた。

それまでは「ここではこういうトラブルが起きうるから、その時はね」と、知りうる限りの知識を授けようとしていたのだけど、それをやめ、「訊く」ことに徹するようにしてみた。「ここはどうなっていますかね?」と訊ねて答えてもらい、「だとしたらどうしたらいいと思います?」と訊ねて

仮説を述べてもらう。「じゃあ、それでもやってみてもらえますか?」というと、手順を間違わずにやり遂げてしまう。「では、今の一連の作業をここにある分、繰り返してみてもらえますか?」とお願いして立ち去ると、間違いなくやり遂げてくれる。その作業は二度と忘れることがなかった。

観察してもらい、仮説を立ててもらい、実行してもらう。こうすると、何がどうなっているかを自分で観察せねばならず、自分でメカニズムを推測して仮説を立てねばならず、実行する際の注意も自分で考えねばならない。こうして能動的に動くと、頭に入りやすいらしい。

他方、教えてあげる(してあげる)と、上司の言葉だけが上滑りし、それを聞くのに必死で頭で考えるヒマもない。聞き逃すまいとすればするほど頭が真っ白になって、作業に移る頃には何も覚えていない。上司の視線が怖くて手元の作業に集中できない。「してあげる」は、相手から能動性を強奪してしまう。

なのになぜ私達は、「してあげる」をしてしまうのだろう?人間はどうやらかなりの教えたがりで、「してあげる」ことにより、相手の中に自分の貢献のあとを刻み込みたくなるらしい。「この子(部下)の成長は私のおかげ」と。自分の貢献感の「材料」扱いをしてしまうのだろう。

でも、指導する際に大切なことは、自分の貢献感を楽しむことではなく、相手の能力を高めること。そこを大切にするならば、「してあげる」はむしろ有害で、「してもらう」姿勢がとても大切。自分の貢献感のために相手を犠牲にしてはいけないように思う。

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