好意の搾取

対照的な学生が二人いた。二人とも苦学生なんだけど、一人は、いろんな人から手助けを得ていた。周囲はますますやったげよう、という気持ちになっていた。もう一人は、何かやってくれる人がいても、その人が「もうあいつのためには何もしたくない」という気持ちにさせる名人だった。何が違うのか?

前者の学生は、自分でできることは精一杯やるタイプだった。誰も何もやってくれなくても自分でどうにかするタイプ。人に頼ろうとしない。でも誰かが自分のために何かしてくれると、それが小さなことであっても「いいんすか!ありがとうございます!」と驚き、喜んだ。

けれど、次も同じ恩恵が得られるとは期待しない。再び自分一人でもやっていけるように行動する。そして、また誰かが恩恵をもたらすと「いいんすか!ありがとうございます!」と驚き、感謝する。で、周囲の人たちは、こいつをもっと喜ばせたい、と、やったげたくなるようだった。

しかし後者の学生は、誰かが何かをやってくれると「ありがとうございます」とは言うのだけれど、本当はこれでは足りないんだけどね、ということが言外に感じられる言葉が出てくる。自分がいかに苦労しているか、こんな支援程度ではまだまだ自分の苦労は軽減されない、といったような。

他人の好意を当然視し、期待する言葉がよく出ていた。一度はやったげた人も「もう二度とあいつを喜ばせたくない」となってしまっていた。
どうやら人間は、好意を当然視され、期待されると、好意を示したくなくなる生き物であるらしい。

他方、どんな小さな好意でも、それに驚き、喜んでくれる人には、「また何かやってあげよう」という気に人間はなるらしい。こちらの好意を当然視せず、期待もしていないのがわかると、かえって好意を示したくなる。どうやら人間は、驚かしたい生き物なのではないか、という気がする。

好意を示してもそれに驚くどころか当然視し、期待されると、なんだか奴隷になった気分になるのかもしれない。好意を搾取され続ける奴隷に。
「ラストエンペラー」という映画で、主人公の溥儀は、すでに主従関係がない下僕に身の回りの世話をさせ続けていた。

下僕が独立した人間になっても、お前は私の世話をするべき人間だ、という態度で、服の前のボタンを留めずに出てきた。元下僕の人物は「これが最後ですよ!」と泣いて怒ってボタンを留めるシーンが出てくる。人の好意を期待し、当然視するのは、相手を奴隷扱いする行為なのかも。

「人に親切にしましょう」という道徳を盾にとって、人の好意を期待し、当然視することは、「好意の搾取」にあたるのかもしれない。
父が昔、公園でたまたま会った視覚障害の人としゃべっていると、引越ししなければならないのだけど大変困っていると聞いて、「手伝いますよ」と引き受けた。

で、約束の日に行ってみると、引っ越しの準備を何もしていない。まったく。一切。父は怒って「目が見えなくてもできることがあるだろう!何もかも他人にやってもらおうなど、甘えるにもいい加減にしろ!」と怒鳴ったという。

父の考えでは、「自分でできることをしようとして、どうしてもできない部分を人に頼るのは構わない。しかし自分がすべきことを全部他人にさせようというのは甘えだし、なにより狡猾だ」ということであったらしい。

私自身で何とかしようとして、でもどうにも自分では解決できない部分が残った時、それを助けてもらえないだろうか、と頭を下げて、断られたことがない。みなさん、お安い御用だと助けて下さる。むしろなんだか嬉しそうにやってくださる。何ともありがたい。

私も学生の面倒を見ていて、学生本人ができるだけの努力をし、それでも自分自身ではどうしようもない部分を頼ってきたとき、嬉しくなる。よくぞ頼ってきてくれました、という気分になる。自分を必要としてくれたということが嬉しくなるようだ。

こいつは放っておいても生きていく力がある、という信頼。でも自分でどうしようもない部分が出てきたとき、私を思い出し、頼ろうと思ってくれたという嬉しさ。そしてそれをやったげると「助かりました!」と喜んでくれるその様子が嬉しい。またやったげたい、という気持ちになる。

たぶん、本来自分だけで生きていく力のあるたくましい人間から、自分が必要とされたことで、「必要感」を感じさせてもらえるのかも。ああ、自分はこの世に生きていてよかったんだ、役に立つことができるんだ、という嬉しさをかみしめることができる。だから、頼られるのはプレゼントの感覚。

でも、もし相手が自分でできることもやろうとせず、全部こちらに丸投げするような甘え方をしてきたとしたら、「好意の搾取」という気分になり、相手の奴隷化された気分になって、実にイヤになってしまうのだろう。

大学の壁に、障害者の人が「僕のお世話をするととても良い体験になりますよ」と、介護ボランティアの募集をするビラが貼ってあった。私はどうしたわけか、気分が悪くなった。なんか、ボランティアの人を奴隷のように扱う傲慢な王様をその文章から感じてしまって。「好意の搾取感」満載。

どうやら、こちらが提供する好意を当然視し、期待されると、「好意の搾取」と感じ、こちらが奴隷扱いされている、という気分になるらしい。そして好意を当然視せず、期待もせず、その都度驚いてくれる場合は、もっと好意を示したくなるようにできている生き物らしい。人間は。

人に親切にすべきである、という倫理道徳を盾に取り、好意を搾取する人は、人が遠ざかる。
たとえ親切にしてくれる人がいなくてもそれは仕方がない、と考える人は、好意に出会うとその奇跡に驚く。驚くからまた好意を寄せてもらえる好循環が訪れる。人の心は、どうもそうできているらしい。

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