経済の駆動力を「欲望」から「工夫を楽しむ・工夫で人を驚かす」へ

NHKはかつて、「欲望の資本主義」という特集を組んだことがある。資本主義の駆動力は欲望だ、ということを端的に表した言葉だと思う。
けれど、私は欲望以外の駆動力が可能なのではないか、と考えている。それについて、言語化を試みたい。

これまで、資本主義が欲望を原動力にしてきたのは無理もないと思う。第二次世界大戦が終わるまでは、実は先進国でも貧しい人が多かった。その日を生き延びるので精いっぱいの人がいた。そうした労働者の苦しみを見て、共産主義が生まれたようなもの。

しかし共産主義は、その名の通り、産み出したものはみんなのもの、共有財産、という考え方だから、頑張っても頑張らなくても報酬は同じ。このため、多くの人々がやる気を失い、頑張らなくなったと言われる。どれだけ欲望を持っていても報酬が同じなら、働かないでおこう、となってしまった。

欲望を原動力にできなくなった共産主義は、やがて社会が停滞し、発展できなくなった、と言われている。他方、西側先進諸国は、極端な貧困が生まれないよう再分配に気を付けるケインズ経済学を採用しつつ、人々の欲望に関しては制限を設けなかった。

収入が大きくなるほど税率を高くする仕組みにしたけれど、どんどん稼ぐ分には制限を設けなかった。これにより、欲望が駆動力になって、西側陣営は経済成長をどんどん続けた。他方、欲望にフタをした共産主義は、経済が停滞した。こうした歴史を見ると、資本主義の駆動力は欲望だ、と考えても無理ない。

他方、十分豊かになった先進国では、もはや欲望が駆動力としてて十分働かなくなった。物質的に満ち足りている。それがなくても別に困らない。こうなると、消費もさほど刺激することができない。ましてや地球環境のことを考えると、消費も抑えたほうがよい、と若い人は考えるようになっている。

新自由主義は、こうした「停滞」を打破し、もう一度欲望を駆動力にした仕組みを取り戻そうとした運動だと言える。儲ければ儲けるほど税金を高くし、一定以上は稼げにくかった制度を改め、最高税率がかなり引き下げられた。これにより、天井知らずの大金持ちになる道が開けた。

誰もがうらやむほどの大金持ちになりたい、という欲望をかなえることで、イギリスやアメリカは再び経済が動き始めた。しかし、最高税率を下げるということは貧困層への再分配をやめるということ。特定の人間だけが稼ぐということは、貧困層からお金を吸い上げてしまうということ。

こうして、新自由主義は再び欲望を駆動力にして経済を動かすことに成功したが、貧富の格差を拡大してしまった。しかも一度貧困層に陥ると這い上がれない構造に。豊かな人はますます豊かに。このため、第二次大戦前の世界に似てきた。富裕層を憎悪する共産主義が生まれた、あの時代に。

私は、ケインズ経済学がもたらした西側諸国の豊かさは、一つの極致だったと思う。全国民的に豊かになるなんて、第二次大戦前の世界では信じられなかったことだった。先進国でさえ、ギリギリの生活を強いられる貧困層がいるのは当然の時代だったのだから。しかし先進国に限られるとはいえ。

全国民的に豊かさを味わえる、という極致を達成することができた。これは、ケインズによる修正資本主義の大きな成果だと思う。問題は、こうして獲得した豊かさを、「欲望」以外で駆動させる方法を見つけることができなかったことだ。このため、新自由主義の台頭を許したのだと思う。

新自由主義は、わざと貧富の格差を作ることで、豊かな人はより豊かに、という、ごく一部の人たちの欲望と、貧困層に落ちたくないという、やせ細った中間層の恐怖心のはりついた欲望を駆動力にしている。しかしこんな形の経済システム、人々を幸せにするとは思えない。

中間層は貧困層に落ちたくない、という恐怖で必死に働いているだけで、心落ち着くことがない。富裕層は富裕層で、やがて貧困層からの憎しみの対象となり、どんな攻撃をされるかわからない恐怖に怯えることになるだろう。無理に欲望を駆動力として取り戻そうとして、社会全体を不安定化させてしまった。

私のアイディアでしかないが、まずはケインズ的な修正資本主義に立ち戻り、全国民的にそこそこ豊かな生活を楽しめる状態に戻すことが肝要だと考えている。まずこれが第一。しかしそこで立ち止まると、イギリスやアメリカが苦しんだように、欲望が失われて経済の駆動力が失われる。どうしたらよいか。

私は「工夫を楽しむ」、「工夫で人を驚かす」を経済システムの新たな駆動力にしてはどうか、と考えている。
かつて経済学は「人間には無限の欲望がある」と仮定した。しかしケインズ的修正資本主義が西側先進国に豊かさをもたらしてみると、欲望が落ち着くということを私たちは経験した。欲望は無限とする仮定に無理がある。

この場合の欲望とは、物質的欲望のこと。若い世代は自動車を欲しがらない、という話が10数年前に出てきたとき、その前の世代の人たちは信じられない思いだった。若い頃には自動車を乗り回したくて仕方なかったのに!でも今の若者は、自動車を無駄に走らせると環境に良くないことを知っている。

生活に困るわけではないのなら、別に自動車は要らない。若者はそう考えるようになった。前世代は、自動車は物欲の対象なだけでなく、ステータスシンボルでもあった。俺はこんな高級車を乗り回せるほど金持ちなんだぞ、と。そう、欲望には物欲だけでなく、優越感という欲望もある。

しかし、生まれた時から物質的に豊かな時代を生きた若者(最近の子どもは、貧しい時代を送っている場合があるからまた世代が異なる)は、人よりも優越して見せようという欲望も、いま一つ希薄だった。物欲と優越感という欲望は、人間はどうやら、一定程度満たされるとそこまで強まらないらしい。

ならば、再度豊かさを日本が取り戻せたとしたら、物欲や優越感という欲望を社会の駆動力にしようとするのは難しくなるだろう。その時に駆動力にしたらよいと思うのが、「工夫を楽しむ」、「工夫で人を驚かす」。それまでにない工夫、アイディアで人を驚かして楽しむ。それを駆動力にしてはどうだろうか。

研究者というのは全員ではないが、比較的金銭欲とか物欲に強くない人が多い。これは、日々の研究で工夫を重ねることで新たな発見をし、それを学会などで紹介して人々を驚かせるという「楽しみ」が、他の欲望よりも強いからのように思われる。

そしてこの欲望は、研究者という特殊な人種だけでなく、どうやら多くの人々にあるもののように思われる。子どもは「ねえ、見て見て」と大人によく声かける。自分の工夫に驚いてほしくて。発見に驚いてほしくて。自分の成長に驚いてほしくて。これはとても強い欲望。

これは年を取ってもそう。飲み屋で「おれはこんなでかいビジネスをしてきたんだ」と自慢話をするのは、子どもが「ねえ、見て見て」というのと同根の欲望。自分がどんな工夫をしたのか、それに驚いてほしいからそんな話をするのだろう。だとしたら「工夫で人を驚かす」という欲望を駆動力に据えてはどうか。

実は、私たちの社会はすでに「工夫で人を驚かす」ことを駆動力にして動き始めているように思う。こんな商品を出せば世間の人が「これは便利!」と喜んでくれるのではないか、自分の工夫に驚いてくれるのではないか、という思いで商品開発を進めている。こうした開発の形が増えている。

ツイッターやフェイスブック、インスタグラムでは「いいね」という反応が欲しくて、仕事でもないのに投稿し続ける人たちがいる。これは、幼児が「ねえ、見て見て」というのと同根。自分の発見した何かを世間に披露して、それに驚いてもらいたい。それが駆動力になっているのだろう。

それが既に駆動力になり始めているのに、まだ十分に意識化できず、過去の「欲望こそが資本主義の駆動力」という古い「思枠」に囚われている。けれど、新しい「思枠」である「工夫で人を驚かす」を駆動力に据えた社会システムを構想してもよいのではないだろうか。

昨日よりも今日、こんな新しい発見があった、こんな工夫をしたらできなかったことができた、今まで誰も挑戦したことがない分野に挑戦してみた。こうした工夫、発見、挑戦を楽しむ社会になれば、人々の耳目を驚かし、楽しませることができ、それが自分の愉快にもなる、そんな社会を作れるのでは。

私は、「工夫で人を驚かす」ことを駆動力にすれば、いわゆる物欲や優越感という欲望は、かなり縮小するのではないか、と考えている。毎日を暮らしていくのに十分であれば、物欲は収まるだろう。他方、優越感というのも、人の耳目を驚かす工夫ができれば、十分代替できてしまう。

ならば、「工夫で人を驚かす」ことを駆動力に据えた、新たな資本主義システムを構築してみてはどうだろう。この駆動力は、人を押しのけることなく、みんなを楽しませるものになるように思う。しかも社会は停滞することがなく、次々に新たな工夫が生まれる。
いかがだろうか。

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